「笠利町津代の戦跡を慰霊する集い」へのご案内
                       37(みな)の会

              
 (事務局・名瀬市)名瀬市末広町7−11森本眞一郎
(あまみ庵54‐1611・自宅53‐5681)
(事務局・笠利町)笠利町手花部2995‐1藤井勇夫(63‐2231)                     
 
『大奄美史』によると、「樺山久高総大将搭乗の薩摩の軍勢約150名は、
1609年3月7日(旧)午後4時(申の刻)ごろ、笠利間切津代港に到着した。
この時笠利の大親真牛(うふやもうし)は、3000人を率い海岸に柵を設け
て防戦大いに努めたが、藩船中から火器(鉄砲)を連発するにおよんで「土
民」これに対する武器の備えなく、やむなく退却した。薩軍陸に上がり大親
を擒にしたので、頭目を失った「土民」は皆降伏する外なかった」と記されて
います。徳之島では300人の戦没者が記録されていますが、残念ながら大
島各地での英霊の数は記録されていません。これからの私たちの課題です。

歴史の解釈の仕方は人それぞれでしょうが、「土民」と呼ばわれながら薩摩軍
に抵抗し、身を挺して散っていった津代の古戦場跡、その裏山のナバ石でおお
われた墓地の下にはいまだに多くの人骨が風雨に晒されたまま眠っています。
そして祈る人も、手向ける花も、奉げる神酒もありません。私たちには、ここが奄
美の歴史上でも大変重要な意味をもつ笠利町の指定文化財とはとても思えませ
ん。笠利の戦闘でわきゃうやふじがなしたちが死守してまで、後世のくゎぁまぐゎ
ぁたちに受け継いでいってほしいと願ったのはいったいなんだったのでしょうか。
私たちは、シマのうやふじがなしたちの遺骨をこのまま野晒し状態でうち捨てて
置くことを、きむぐるしく、いや非常に恥ずかしいことだと思っています。

さて、今年はその日から393年目に当たります。7年後には400周年の節目を迎
えます。 この長い歴史の中で、私たち奄美の民々が得たものはなにで、失ったも
のはなんだったのでしょうか。先の定まらないシマ島の現状と未来ははたしてこの
ままでいいのでしょうか。私たち奄美丸の乗組員はいったいどこへ向かって針路を
とればいいのでしょうか。問題は山積しています。笠利の津代に眠る多くのマブリ
たち、私たちのうやふじがなしたちがこの地から発信し続けているサイレンこそは、
奄美のさまざまな問題のありかをよく指し示しています。いわば私たちしまっちゅの
聖なる原点ではないでしょうか。

そのような思いから、私たち民間の有志一同はこの聖なる津代の墓地で、1999年か
ら毎年、「笠利町津代の戦跡を慰霊する集い」を黙々と継続しています。

つきましては下記の通り、今年もささやかな手作りの慰霊の集いをとり行ないますので、
皆さまのご協力とご参加をご案内申し上げます。

                                             以上

                        記


1、 とき 2002年4月20日(土)午後3時〜
2、 ところ 笠利町手花部墓地を左(海側)へ突き当り(養殖場近く)
              「津代古戦場跡ナバ石墓地」前
3、 会費 無料(献花・献酒・一汁一瓶などはたむぃだむぃで)
                        
2002年4月19日(旧暦3月7日・尊とぅがなし)