1219『社会文学 第20号』
「特集 帝国の周縁」
「島尾敏雄の帝国と周縁
―ヤポネシアの琉球弧から―」
森本眞一郎
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はじめに
NHKの天気図について名瀬測候所に電話で確認した。
「奄美大島は、九州?それとも沖縄ですか?」
「与論島から北は九州です」
「トカラ列島は、種子・屋久?それとも奄美ですか?」
「トカラ列島は奄美地方です」
九州島と台湾島とのあいだに弧状につらなる島々を琉球列島という。地理学・地政学の用語の「琉球弧」とほぼ同義語である。約千二百q(本州島と九州島を合わせた長さ)のあいだに百四十六島が点在する弧状列島であり、太平洋西縁(アジア大陸東縁)に一連の花綵列島のひとつを構成している。
私が住んでいる鹿児島県の奄美群島には八つの有人島がある。地理学では「琉球列島(弧)」の「中琉球」だが、行政区は「九州」の南限であり、文化の範囲では「琉球文化圏」の北限として位置づけられている。いずれにしても「奄美」という地域は、人為的な「地理」「行政」「文化」などを軸にしてくくられるから、「日本(ヤマト)」と「琉球(オキナワ)」、どこからくくってもはしっこにおかれることになる。
ついでに、地球の生物地理学でくくったばあいの「奄美」は「東洋区」、植物地理学では「東南アジア区系」で、いずれもその北限にあり、南限はインドネシアである。またしてもさかい目だが、そこにはさかい目ならではの環境に応じたDNAたちが、多様な生態系をはぐくむにはかっこうの場所を提供してくれている。ヒトはどうだろうか。
本稿用に「奄美」近辺の年表を作成した。本稿のテーマにした「ヤポネシアの琉球弧」を「奄美」の時間軸にとどめるためである。そのために戦後の項には島尾敏雄も挿入した。
二万五千年前 旧石器の集石群(奄美大島キシカワ遺跡)。
五九六年 掖玖人三人入貢す。
六五四年 吐貨羅人五人日向に漂着。
六五七年 吐貨羅国人・海見(あまみ)島を経て筑紫に漂着。
六七七年 多禰(たね)嶋人を饗す。
七一五年 陸奥、出羽、蝦夷、南嶋、奄美、夜久、度感、信感、球美等来朝し、各その産物を献じた。
九九七年 奄美人が壱岐・対馬・肥前に侵入、三百人を連れ去った。昨年は四百人奪われた。
一四二九年 沖縄統一。翌年、明が中山王に尚姓を賜る。
一四六六年 尚徳王、喜界島を侵略。
一五〇〇年 中山軍、八重山(オヤケアカハチ)を侵略。
一五七一年 尚元王、第三回の北大島侵略。
一六〇九年 薩摩藩が琉球国を侵略。琉球国は日中両属に。与論島以北の「大島(八島)」は薩摩に併合。黒砂糖生産のための直轄植民地となる。
一九四五年 日本帝国が敗戦。北緯三十度(口之島)以南のトカラ・奄美・沖縄の「南西諸島」は米軍政府に統治される。
一九五二年 大島郡「十島村(トカラ列島)」が日本に復帰。
一九五三年 十二月二十五日、アメリカ政府が北緯二十七度(与論島)以北の奄美群島を日本政府にクリスマスプレゼント。施政権返還で奄美の島嶼は再び日本国鹿児島県の統治下に。
一九五五年 島尾敏雄が奄美大島にIターン。
一九六一年 島尾が〈琉球弧〉と〈ヤポネシア〉を発信。柳田國男が「海上の道」を出版、翌年死亡。
一九六八年 小笠原諸島が日本政府に返還される。
一九七二年 琉球政府の施政権が日本政府に変換される。
一九七五年 島尾が図書館長を辞職して奄美を去る。 一九八六年鹿児島にて死亡。六十九歳。・
二〇〇三年 奄美の日本復帰五十周年記念式典。
平成の天皇と皇后が來島。
二〇〇九年 鹿児島の奄美併合から四百周年。
一 「日本の周辺としての奄美」
一九六〇年、奄美に移住(亡命)して五年目の島尾敏雄は、「日本の周辺としての奄美」を中部日本新聞に書いている。
まず、民俗研究者たちが、この地帯に目をつけたとき、
そこに、いわばはるかな古い日本のすがたが生きながらえていたことを発見しておどろいた。ほかの周辺の離島や本土の中の底辺の山村の場合には、あらかじめ予想された部分的な「おくれ」がときほぐされることを期待するわけだが、この南島では、琉球の中山王国などの経験があるので、その地帯だけがひとまとめにされ、際立ったかたちを作りながら、「日本の中の日本」といってみたいほど、全体として、本土のすがたに似ているというかたちであらわれてくることが特徴である。それは古くからのしきたりの上でだけでなく、最近の政治的な環境(奄美の八年のあいだの、そして沖縄、先島では今なお続いているアメリカの統治という状況)の中ででもなおかつそうである。それはたとえばその中で反応を示す南島の社会状態の観察者たちが「日本の縮図」とか「日本よりも日本らしいところ」などと形容してきたことを見ても察知することができることだ。
つまり、「島」という限られた環境のために、島自体では基底の文化を創造することがむずかしく、いつも島の外からの力に、事大と便乗の姿勢をとらなければならなかったすがたが、日本国の縮図としてうつってくるのである。
文章最後の、「事大と便乗の姿勢」という形容をおさえておきたい。島尾はそれを南島人の特質としてたびたび使うのだが、私はそれを島尾自身の性質だと思うからだ。
文脈をたどると、「はるかな古い日本のすがたが生きながらえていたことを発見しておどろいた」のは、「民俗研究者たち」である。戦前に奄美・沖縄をおとずれて「日本人や稲作のルーツ」などを展開した柳田國男たちのことだろう。
「『日本の中の日本』といってみたいほど、」「日本国の縮図としてうつってくる」というのは島尾自身の表現だ。
「日本の縮図」「日本よりも日本らしいところなどと形容してきた」のは、「南島の社会状態の観察者たち」である。三者三様、表現はちがうが、いずれもキーワードとして「原日本」という抽象的であやしいモデルを、「日本の周辺としての奄美」に象嵌しようとしている。
「南島の社会状態の観察者たち」とは、奄美の日本復帰直後の一九五五年から三年にわたり、「内地」から奄美の島々にのりこんできた「本土」の「九学会連合奄美調査委員会」だろう。島尾もこの年奄美に入植し、一九五八年から鹿児島県立図書館奄美分館の館長に就任(奄美日米文化会館館長兼務)していて彼らと接触しているからだ。
私などには耳なれない「九学会連合」とはなんだろうか。それは日本民族学会、日本社会学会、日本人類学会、日本宗教学会、日本地理学会、日本民俗学会、日本言語学会、日本心理学界、および社団法人東洋音楽学会からなる連合体である。この九学会連合は二十年後の一九七五年から五年間、奄美諸島とその北のトカラ列島において第二次調査を行い、「地域性・重層性の二点から、奄美が日本列島の中にきわめて特異な地位を占めることが、各方面から明らかにされたと思う。」(『奄美―自然・文化・社会―』・一九八二年)と報告している。
「日本列島の中にきわめて特異な地位を占める」奄美(トカラ)とはどのような地域であろうか。
「七一五年 陸奥、出羽、蝦夷、南嶋、奄美、夜久、度感、
信感、球美等来朝し、各その産物を献じた。」とあった。
古来、列島の境界領域で地域の特異性(民族性)を主張して、大和政権のマツリにまつろわなかったネイティブたち。ことばを変えると、国家と対峙するほどの「特異な」生産活動や言語や宗教(神観念)や風俗などを保持している国家周縁の先住民族たち。彼らは中央国家の「化外」「境外」に跋扈する「異人」であり、懐柔しながら同化させるのが国策(マニュアル)であった。
近世以降のアイヌ・トカラ・奄美・沖縄・台湾・朝鮮・満州をはじめ、南洋諸島などへの日本帝国の足取りをたどってみれば、そこには古代国家の編成時から変わらぬ同化政策と植民地主義とが営々とつらぬかれているのを確認できる。
ちなみに、「人間科学の学際的総合を目指す」九学会連合の「調査」は、一九五三年以来、文部省科学研究費の助成で行っている。第八回の奄美の第二次調査(一九八〇年終了)まで、次のような地域を共同調査している。対馬、能登、奄美、佐渡、下北、利根川、沖縄・奄美(とトカラ)である。離島が五、半島が二、川が一で離島が過半数を占めている。
とざされた離島には深い時の流れが圧縮されているからだろうが、なぜだかここにはアイヌの
島尾敏雄は、彼の理想とする〈ヤポネシア〉の地図上に北海道の中央部から北につらなる千島列島を取りこんだが、そこにくらす先住民のアイヌのことについてはほとんど言及しなかった。また、島尾の〈ヤポネシア論〉は、東北と南島の類似性を強調してやまないが、東北とアイヌとのつながりについての考察も深くはおよばなかった。これもやはり腑に落ちない。
二 〈琉球弧〉と〈ヤポネシア〉の発見
島尾敏雄は一九五八年「奄美郷土研究会」を組織し、奄美を去る一九七五年まで世話人としてその中核的存在であった。二十年間も奄美に住みつきながら、小説を書きついできた島尾だが、その意志にもかかわらず奄美をテーマにした小説は、ついに一本も著すことができなかった。なぜだろうか。
「島のことがわからなくなった。」「なんにも見えない、といってみたくなるほどだ。」「もう島どころではない、と気が変になりそうなのだ。」(「奄美の島から」・一九七一年)
「琉球弧は、日本だ日本だと言いすぎてきた」「つまり、南島が持っているところの特質は、ヤマト(本土)で展開された日本国家というものよりも時間的、空間的にもっと長い広い何かであるように思う」(「琉球弧に住んで十六年」・一九七一年)
「実のところ今南島について何も書きたくない気持ちになっている」(「島尾敏雄非小説集成第一巻あとがき」・一九七三年)
島尾はここで、いったん精神的にほころびている。しかし奄美から日本にUターンしたとたんに癒されたのだろうか、ふたたび「島」や「琉球弧」に対する本土在住のスポークスマンとなるのだが、「奄美」への熱はすでに冷めている。それ以降、彼にとっての「島」は日本復帰後の「沖縄」となるのだが、そのあたりの経緯は別の機会にゆずりたい。
「郷土研究」の必要性を日本全土に警鐘して、全国の地域情報を手中に収めていた柳田國男は、戦前、奄美・沖縄を旅して『海南小記』(一九二五年)を著し、戦後の一九六一年には、彼の遺書である『海上の道』を世に送りだした。同年、島尾も〈琉球弧〉(初見・「奄美の妹たち」)と〈ヤポネシア〉(初見・「ヤポネシアの根っこ」)という新知見を打ちあげている。島尾はこのうちの「ヤポネシアの根っこ」を『世界教養全集二十一』の「月報第十五号」で発表しているが、この『世界教養全集二十一』には、柳田國男の「海南小記」や金田一京助の「北の人」など「近代日本学」を代表する南北の「教養」が収められている。
それから六年のち(一九六七年)、島尾はつぎに『柳田國男全集第一巻 海上の道』(筑摩書房)の解説を担当する。
「私の頭の中には柳田國男がいっぱいつまってしまった感じです。これもひとつの影響と言わないわけにはいかず、柳田國男の在り方とその思想の性格を示すようにも思います」。
柳田國男の思想が、島尾敏雄の思想形成に影響を与えているのをくみ取ることができる。島尾が柳田から引きつごうとしたこと、それはなんだったのか。
私はこの小稿で、島尾敏雄が〈琉球弧〉や〈ヤポネシア〉という新知見を提唱してきたその深層を北緯二十八度の奄美大島の地点で掘りさげてみたい。
その手がかりとして、ここでは次の二点にしぼってみる。
(一)トカラ列島を排除する〈琉球弧〉
(二)千島列島を囲いこむ〈ヤポネシア〉
(一) トカラ列島を排除する〈琉球弧〉
島尾敏雄は、九州帝国大学時代、大陸西域の東洋史を専攻していた。彼は学生時代に「南方」のフィリッピンから台湾・上海を旅し、さらに「半島」から「大陸」に足を運んでいる。明治以降、日本帝国は、北海道(蝦夷地開拓)、樺太・千島(交換条約)、沖縄(琉球処分)、台湾領有、日韓併合と植民地の版図を拡大していった。島尾の旅は日本帝国の版図とかさなっている。
島尾ミホが編んだ「島尾敏雄『大日本帝国海軍』軍歴」(『島尾敏雄事典』・二〇〇四年・勉誠出版)によると、島尾は昭和十九年十一月下旬、帝国海軍特別攻撃隊第十八震洋隊(島尾部隊・隊員一八三名)の指揮官(帝国海軍中尉)として、奄美群島加計呂麻島に進駐した。ここを死地と覚悟し、古事記を唯一たずさえてきた島尾は、この島に「古事記の世界が生きていた」(「琉球弧の感受」・一九七八年)ことを「発見」したようだ。
しかし、島尾の奄美での戦争体験は、ミホとの神話的なモノガタリはその一部であり、実際は南島(人)と帝国の軍神たちとの政治的・差別的なまじわりであった。
戦争中、私は海軍部隊に属して一年ばかりを奄美で過ごしたが、そのとき軍隊内の(それは二、三人をのぞいたあとのすべてが本土出身の者ばかりだったが)奄美の人々に対するある差別の感情は印象的であった。つまりこの島の人々は本土の人々とは違うから用心しろという言い方で接するという固定観念のあったことだ。だから事態が極端に近づいた場合には、むごい形となって現れてくる根の胚胎していたことだ。沖縄県ではそれが現実となった。(「琉球弧に住んで十六年」・一九七一年)
無類の戦争を体験したはずの戦後派の作家・島尾敏雄は、戦記モノも著してはいるが、そこで天皇制、戦争責任、植民地主義などの政治的・社会的なテーマには一歩もふみこまず(沖縄県での集団自決への記述はあるが)、日本の東北と南島との関心ごとに彼の主題を換骨奪胎している。島尾の死出への「出発は遂に訪れず」、彼は、ヤマトへ生還してから帝国海軍大尉に昇進したところで軍役をとき、日本のメジャーな作家としてデビューする。
その後、日本の文壇を上りつめた島尾の双六の上がりは、宮内庁からの「日本芸術院会員」(一九八一年)としての任命だった。一九八六年十一月十二日死亡。叙正五位。勲三等瑞宝章の授与を受ける。同十五日、天皇陛下より「祭粢料」を賜る。最期までカトリックの信者だった島尾だが、生涯を天皇制の樹の下でつつがなく生きぬいてきた日本主義者であった。
『島尾敏雄全集第十六巻・第十七巻』(晶文社・一九八三年)は、島尾の南島に関するエッセー集だ。以下、参照する。
島尾が、「沖縄航路の船に乗り込んで十月の中旬横浜の
それまでの島尾は、奄美近辺の島々のことを、おもに「南島」「奄美・沖縄・宮古・八重山」と表してきた。「南西諸島」「琉球列島」というくくり方は、島尾はどうもしっくりこないと書いている。なぜなら、そこにはトカラ列島が含まれるからである。島尾は、「琉球文化圏」や「琉球弧」というカテゴリーからトカラをどうしても切り捨てたかったようだ。それは、言語圏の相違からだと島尾は理由づけているが、はたしてそれだけの根拠からだろうか。
「文化と生活の基底のところで、たとえばこの地帯の方言が琉球方言としてまとめることができるように、やはりそれ以北の(厳密に言うと、同じ三十度以南にはいってはいるが、トカラ列島は以北の部分に加えなければいけないと思っている)地域と対比させ区別することのできる、一つのまとまった文化圏をかたちづくっていることは否定できないとしても、この三十度以南の奄美と沖縄と宮古と八重山の四つの区域が、単純に統合的な機構の下でたやすくひとまとめにされることは考えられない。」(「軍政官府下にあった名瀬市」・一九六〇年)
ところが、トカラの島々もまた奄美・沖縄と同様に、古代から日本国の領土ではなかったのである。
朝鮮資料・申叔舟著『海東諸国記』にある日本国西海道九州の図の小蛇島(臥蛇島)の書きこみには「分属日本琉球」とあり、臥蛇島が両国家の境界とうつっている。戦後、無人島となった「臥蛇島」だが、ここでの地名はトカラを代表しての地名という。
また、『李朝実録』(一四五三年五月十一日条)には、「去庚申午(一四五〇)年貴国(朝鮮)人四名漂白干臥蛇島在琉球・薩摩乃間、半属琉球、半属薩摩」とある。
このように、トカラ列島は古代から日本の版図にはなく、中世に琉球王国が成立してからは、薩摩と琉球の両属であった。トカラはトカラでありつづけ、今でもそれはかわらない。近世の琉球国は日中両属だったが、日本でも中国でもなく琉球であったし、現在、日本に復帰して米軍基地が居座り続けていてもオキナワはオキナワである。また奄美は薩摩の直轄地となり約四百年間も支配がつづいているが、いまだに奄美は鹿児島でも沖縄でもなく、奄美である。
島尾は、琉球方言とは違うという理由で、「トカラ」を〈琉球弧〉から排除した。確かに現在のトカラ方言は九州方言に属している。しかし、トカラの「文化と生活の基底のところで」は、奄美・沖縄と底流するくらしのいとなみが今も色こく生きている。
私は、トカラの有人七島を二〇〇〇年と二〇〇一年に歩いたことがある。サンゴ礁地帯である奄美以南の風土にはめずらしい御岳という火山や温泉はあるが、トカラの光と影、風と海、クバやガジュマルの杜にいろどられた風土のにおいは奄美かと錯覚するほどだった。
それにしても、トカラの方言はなぜ九州方言なのだろうか。
言語学を教える知人から聞いた話では、琉球方言を青色、九州方言を赤色としたばあい、トカラの島々はそれらが混交して紫色にそまった状態、ということだ。たしかにトカラ列島は言語だけではなく、トカラ構造海峡という大きな海峡をさかいにして、地理学からも、生物学からも、民俗学からも日本列島と琉球列島のさかいに位置している。
トカラ以外の場所から見ればトカラはどん詰まりの場所である。しかし、時間と空間のさけめの軸をトカラに置けば、トカラ以外の場所(琉球やヤマト)は逆にトカラの周縁である。そこに国家があろうがなかろうが、だ。アマミも同じだ。
中心と周縁が同時に存在するということは、現代の宇宙物理学の基礎的な論拠となっている。宇宙や地球は風船のようなもので、銀河に浮かぶムリブシ(群星)も、地球上のそれぞれの地域も、風船の上ではすべて一様につながっている。だから、宇宙のどの星も、地球のどの地域も、相対的には宇宙の中心であり同時に周縁である。ということは、本誌の「帝国と周縁」というテーマにも有効である、と私は考えている。
一九七一年の『トカラ列島有形民俗資料調査報告書』(昭和四十六年三月・鹿児島県明治百年記念館建設調査室)には、トカラと奄美・沖縄とのくらしかたのつながりがあきらかにされて報告されている。
この報告書は、鹿児島県立図書館奄美分館に現在も三冊収まっている。当時、図書館長であり、彼の意図的な造語である〈琉球弧〉からトカラ列島を排除した島尾敏雄は、この報告書には当然目をとおしているはずだ。いや、くぎづけになったのではないか。先にあげた島尾の「島のことがわからない」発言群は、まさにこの年から頻出してくるからである。
同時にこの年は翌年にひかえた沖縄の日本復帰をめぐって、島尾敏雄の考え方の一番の理解者たちであった沖縄のシンパたちが、日本国へ「反復帰・反ヤマト」を突きつけていた年でもある。彼の〈琉球弧〉ひいては〈ヤポネシア〉の土台がゆらぎ始め、ついに四年後には奄美から鹿児島へ移転することになるのだが、本稿ではこの問題をトカラの領域にしぼって考えてみる。
さて、「トカラの農業」を担当した小野十朗の調査報告は、島尾の〈琉球弧〉と柳田の「海上の道」を検証するうえで重要な手がかりを私たちに与えてくれる。
この島(口之島)で祭といえば何を置いても農作物の豊作を祈るという精神の現われであろうということ。稲作中心の祭ではなく、里イモ、カライモ、粟、麦(悪石、宝島などには旧四月にムギの祭がある)といったイモ、雑穀までを含んでの祭であること。先に記した八月の十五夜の祭にしても、悪石島、臥蛇島などでは粟の祭だと言っている点から考えて、むしろ粟の祭が稲の祭に転化したことも考えられ、十島の農耕祭の非稲作的、雑穀的傾向がはっきりしてくる。
これは、奄美(沖縄)の歳時習俗でも同じである。
粟・稲・麦などの代表的な作物については、収穫祭に先立って、穂がではじめた頃にそれぞれの穂花祭(奄美では新穂花・アラホバナという)がネーシ(女神職で沖縄のノロの系統を引くと思われる)によって行われているが、これは沖縄の首里王府を中心とした祭りがここまで伝わっていることを示すものであろう。
トカラでも奄美と同様、沖縄のノロ的な祭事が続いていた。
小野は「奄美文化的であること」という項目をわざわざ設けて、次のように結論付けている。
ヘラを用いること、丈の高いスルスを用いること、特有な形をした原始的な犂があること、高倉があること、馬にウムゲをつけて使うことなどは、十島に見られる奄美文化または沖縄奄美文化の代表的なものである。これだけで十島が沖縄奄美文化圏に属することを検証するに十分であろう。つまり、農具(農耕文化)から見て十島は沖縄奄美文化圏の北限をなすと言え、沖縄奄美文化と大和文化との境界線を引くとすれば、十島は沖縄奄美文化の方に入れるのが適当と言えるだろう。
島尾はこの報告をどのように解釈したのだろうか。
小野は十島の農耕具の名称をとおして、方言の問題についても重要な問題を提起している。
ここで注意しなければならぬのは、十島では奄美的な用具を大和的な名称でよぶ例が多いことである。奄美のイーザイは十島のスキ、奄美のアジムは十島のテギネ、奄美のチチは十島のウチギネといったふうである。これは文化の境界現象として、こうした現象の起こる理由を考えてみねばならぬ。
弧状につらなる列島の島々は、同一文化圏といえども支配者の匙加減や政策ひとつでいかようにも変容し、支配のための分断統治が可能となる。中世まで自らの国家など持たずに東アジアの海上を舞台に自活していた「日本の周縁の島々」。十五世紀の琉球建国時代からは、琉球とヤマトの周縁に位置づけられ支配の対象とされてきたトカラとアマミ。
中世から現代にいたるまでの島々の、「両属」「分断」「交換」などの目まぐるしい歴史は、まるでパソコン上の「切り取り」「コピー」「貼り付け」のようである。たとえば、一九五三年の奄美の「祖国」復帰は、アメリカ国から日本国へのクリマスプレゼントであった。それによって、たとえば、沖縄島が眼前にある与論島は、沖縄島から見ると「本土」「九州」の与論島となっている。
島尾敏雄は島々の負の歴史の要因を、外圧に弱い南島人特有の「事大と便乗の姿勢」に起因させている。外からの原因で島々が変わっていくのを、島尾は内なる島民性=島国根性の問題にすりかえている。では、島尾自身は身に降りかかった「戦争」という外圧とどう向きあってきたのだろうか。
ぼくは文弱の徒でしたから、まあ戦争とか軍隊とかが恐いわけですよ。恐いけども、意志がしっかりしていて、はっきりした思想があって、反戦の行動に出るというふうなことじゃなかった。ぼくの場合は、逃亡もせず、まあズルズル戦争にはいっていった。(《中国・、「回想の怨念・ヤポネシア―沖縄・奄美・東北を結ぶ底流としての日本」・一九七〇年」
「まあズルズル戦争にはいっていった」という島尾の、「事大と便乗の姿勢」は島国根性そのものである。島尾の次のような戦後に見せる歴史認識はさらに看過できない。
単に歴史を告発するのではなく、補完者としての痛みを不断に自省するところから歴史への洞察力を出発させないかぎり、真に歴史を撃つことはできない」(『新沖縄文学』四十一号・「琉球弧のなかの奄美」、一九八一年)
「歴史の補完者としての痛み」とは、「大日本帝国海軍大尉」として敗戦を迎えた島尾敏雄の戦争体験や戦後の歴史認識のことでもある。島尾自身はそのことを「不断に自省」し、「真に歴史を撃つこと」をしてきたというのだろうか。私の島尾敏雄像は、それとは逆に、戦後もなお帝国の歴史の補完者としての役割を担い続けてきた日本(愛国)主義者である。なぜなら、次の項で取りあげる「(2)千島列島を囲い込む〈ヤポネシア〉」の歴史認識がそれを証明しているからだ。
ここまで島尾敏雄の経緯をたどってきて私に見えてきたこと、それは、島尾が〈琉球弧〉を「発見」し、同時に、そこから「トカラ列島」を排除してきた理由だ。
島尾が戦後、日本に復帰してまもない奄美に亡命してきた当時、日本は敗戦により「大八州」(蝦夷と南島をのぞく旧領域)以外の植民地をすべて失っていた。半島や大陸だけではなく、台湾島と太平洋の島々すべてを。アイヌを一掃した内国植民地であった「北方」の北海道はかろうじて残っていたが、同じ内国植民地だった「南方の」オキナワはアメリカの統治下にあり、「北方」のクリル(千島)諸島もソ連領となっていた。
島尾は、「アメリカのオキナワ」を「日本の沖縄」に再併合するために、明治の琉球処分以来くりかえされてきた琉球と日本との「民族」的同質性(日琉同祖論)を、隣の奄美の島から発信しつづけた。その核になったのが、柳田國男や研究者たちが戦後もくりかえし展開してきた「はるかな古い日本のすがた」の「南島=オキナワ」であり、島尾の「日本以外のなにものでもない日本の中の日本」としての「〈琉球弧〉=アマミ・オキナワ」であった。島尾は〈琉球弧の視点から〉オキナワを戦後の新日本にたぐり寄せて再併合する思想家のひとりだった。一九七二年の「沖縄の日本復帰」という内実は、近世に薩摩が、近代に日本が侵略してきた植民地としての「琉球王国」の再併合であった。
しかし、「琉球弧」とは本来、九州島から台湾島までの南につらなる百四十六もの島々の総称である。島尾は、〈琉球弧〉と「沖縄」をリンクするために、奄美を介して「琉球(国)文化圏」という狭小な「琉球主義者」としての文化装置を出してきた。ここで、歴史的にも文化的にも、そして政治的にもなかば「琉球文化圏」に属してきた「トカラ以北の島々」を排除する必要があった。そのために島尾が持ちだしたのが「方言の相違」というカードだった。
これによって、地理学と地政学上の全島的な用語であり、事実上もつながっていた「琉球弧」の島々が、それぞれの日本復帰後にはその中の「中琉球と南琉球」だけの〈琉球文化圏〉の枠の中にはめこめられてしまった。その結果、琉球国の周縁にあった「トカラ以北の北琉球の島々」は、島尾の〈琉球弧の視点〉によって排除され、さらに太い境界線によって分断統治されていくことになる。島尾もまた国家のご用学者たちがそうしてきたように、「日本国」や「琉球王国」という国家論の視点からでしか、「南島」の島々を切り結ぶことができなかったのだ。
「琉球弧」を構成する無数の島々は、「琉球国主義者」や「日本国家主義者」たちとは無縁のところで、「国家」や「文化」や「方言」などをまたぎながらふつうにくらせてきた。なぜなら、それぞれのシマ島こそが、シマンチュ本来の父祖の母なる「祖国」であったからだ。
(二) 千島列島を囲いこむ〈ヤポネシア〉
そもそも島尾が夢見た〈ヤポネシア〉とはなんだろう。
日本列島の地図を見ますと、主な島々からはみ出た余分なところとして、千島列島がありますし、また伊豆諸島や小笠原諸島、それにこちらの琉球弧があります。(「私の見た奄美」・鹿児島県大島郡市町村議会議員研修会での講演・一九六六年)
ことに日本の島のかたちは、千島弧と本州弧と琉球弧の三つの部分から成る典型的な弧状を示しています。(『海』・「ヤポネシアと琉球弧」・一九七〇年)
島尾が地理学から借りてきた「日本列島弧」は、千島弧・東北日本弧・西南日本弧・琉球孤・伊豆・小笠原弧から形成されている。
島尾は、「〈ヤポネシア〉=日本列島は倭人と蝦夷と南島人から成りたっている」と言いつづけてきた。しかし、見のがしてならないのは、この中の「蝦夷」に北海道の中央部からカムチャッカ半島につらなる「千島弧(列島)」までが含まれていることだ。「千島弧」は列島の長さが約千二百qもある。「琉球弧」と同じ長さだ。島の数は三十あまり。島尾が〈ヤポネシア〉論を〈琉球弧〉論と同時に発表したのは、一九六一年、敗戦後十六年を経過していた。どういう意図があったのだろうか。
千島列島には、日本やロシアの国家領有(=植民地支配)以前には
一八七五年の千島・樺太千島交換条約で樺太と北千島とを日露が交換し、全千島列島が日本領となる。日本政府は国策として、千島アイヌ全員をシコタン島に強制移住させた。慣れない生活と風土にアイヌは次々に倒れていった。
戦後の千島列島は、日本の敗戦によりソ連およびそれを継承したロシアの支配下にある。日本では、日本共産党や維新政党・新風などの千島全島(北方四島だけではない)の返還要求がある。しかし、千島は歴史的にも日本固有の領土ではない。先住民族アイヌ固有の国土である。千島列島は日本でもロシアでもなく、アイヌに返還するのがスジである。
一八七五(明治八)年の日本とロシア両帝国の「樺太千島交換条約」も、それぞれの帝国周縁のシマ(縄張り)争いである。樺太にはアイヌ(南部)・ウィルタ(中部)・ニヴヒ(北部)などの北方民族が先住していた。しかし、交換条約は彼らの既得権と生存権などを無視して一方的に交換されたものだ。侵略者には、帝国周縁の土地やヒトなどは単なるモノでしかないからだ。実際、樺太は石油ガス、千島列島は水産資源の宝庫であり、帝国どうしの国益がらみの領海問題があとをたたない。これは、「琉球弧」の島々でも同じである。
千島・樺太以前の
「アイヌモシリ(国土)を日本国に売った覚えも貸した覚えもない」(萱野茂)
「同化政策とは、(中略)アイヌモシリ(国土)に対しての侵略という歴史的な罪悪をも根本から抹殺してしまう考え方である。既得権とは従来あった領土としてのモシリのさまざまなアイヌ民族の権利をいうことであり、この諸々の権利は民族として現在に至るも歴史的に放棄したことはないのである。」(結城庄司『チャランケ』)
いま、島尾は東北(福島)の父祖の地に眠っている。
福島県相馬郡小高町には、「埴谷・島尾文学資料館」が建設された。島尾がこの世に送りだした厖大な作品群は、書物から映画・演劇のメディアともクロスしている。島尾がこの世に伝えておきかったことはなんだったのだろう。
島尾は奄美を去る二年前に述懐している。
さて、十七年を越える南島での歳月のあいだに私が学んだことは、ヤポネシア・琉球弧の視点かもしれない。
(『島尾敏雄非小説集成』第一巻あとがき、一九七三年)
島尾の〈ヤポネシア〉は、「国家」としての「日本」を、「もっと眼の位置を高くして眺めたところから」超国家的に発想したものという。そして、〈ヤポネシア〉というイメージは、島尾の血に流れている東北の「エゾ」「エミシ」「アイヌ」などの自覚からうみだされたものという。島尾は、だから自分は生来「はしっこの思索家だ」とも言っている。
しかし、『島尾敏雄事典』という七百ページもの分厚な「事典」に添えられた十四ページにわたる索引群にあたってみても、「蝦夷」も「エミシ」も「アイヌ」もない。くわえて「千島弧」も「トカラ列島」も見あたらない。これはどうしたことだろう。「十七年を越える南島での歳月のあいだに私が学んだことは、ヤポネシア・琉球弧の視点かもしれない。」と感慨深く述懐している、のにだ。
この「事典」は島尾の死後十四年目に、妻ミホなどによって編まれている。生前の島尾ワールドが一目瞭然である。私には、この中に「アイヌ」や「千島弧」や「トカラ」や「宮古・八重山」などのはしっこの世界がみごとにはずされていることこそが、島尾敏雄の〈ヤポネシア・琉球弧の視点〉の真相であり、そこに島尾の「日本(国)主義」と「琉球(国)主義」であった島尾敏雄の国家主義の深層があぶりだされている、と逆に確信させられている。
島尾が奄美に亡命してきた当時、日本の南辺の旧植民地であった琉球国はアメリカの軍政府下に属していた。島尾はそれを「日本固有の領土」として網をかぶせるために〈琉球弧〉という概念を発案した。「国家」の枠組みが好きな島尾は、日本国と琉球国の半属地帯でしなかった周縁の中の周縁、無国籍地帯であったトカラの島々を〈琉球弧〉から排除した。しかしそこは琉球や大和という国家には属しないが、れっきとした「琉球弧」という南島の文化圏だった。
同時に、島尾は日本列島の北辺の
太平洋の海原にたゆたうペンダントとしての日本列島。それを大陸の北と南からつなぎとめるための島かざり。島尾が「発見」した千島列島と琉球列島である。島尾のヤポネシア構想の真相はここにあった、と考える。
近年、「南島」ではそれが具体的に〈琉球回廊〉として浮上している。いつかそれが「北方」でも〈千島回廊〉として復活する可能性を秘めている。ヒットラーが第二次大戦の前夜に進軍した「ポーランド回廊」。そのように、ヤポネシア帝国の周縁の〈琉球回廊〉と〈千島回廊〉が、有事の際の「シーレーン」として機能するのだろう。
〈ヤポネシア〉、そのひびきは美しい。
日本というのっぺらぼうな国家像を多様なネシアで彩るために発想したという島尾の〈ヤポネシア〉。だがしかし、文化のよそおいと美しいひびきに合わせて、またぞろ『古事記』をかかえた隊長さんに通られてはたまらない。
おわりに
私は奄美に生まれて、奄美でくらしている。
そのあいだ、アジアと日本の一部を放浪してきた。移動のたんびに、「アジアの奄美」「日本の奄美」「琉球の奄美」「鹿児島の奄美」「奄美の名瀬市」「
いま、平成の大合併。日本列島の地域をめぐる境界が目まぐるしく漂流している。しかし、大海の底深く根をはって生きている島々は、たとえ見かけは小さかろうが隣の島々と地球の根っこでつながっているという友情と信頼がある。だからどの島も屹立して動じない。島々の名称やくくりかたなどはどうでもいい。島々には島々のDNAがある。海の上に浮かぶ地球上の土地はみんな島であり、地球も銀河に浮かぶひとつの島だから。
たえまなく変わりゆくおたがいの境界を、相対的に「異化」したり「無化」したりするのもいい。「事大と便乗」によって流れにまかせるのもいいだろう。私のようにさかいなど仕方がないさと、さけめにはいりこむのも、またいでいくのもいいではないか。みんな自分がまんなかだから。
島尾敏雄という「日本を代表する作家(?)」が、奄美から提唱してきた〈ヤポネシア〉と〈琉球弧〉。その根っこを、奄美から堀りだして料理してみたかった。ここ数年来イメージしてきたことではある。私が掘りだしてみた島尾の根っこは、「日本主義者」の「琉球主義者」で、いわば「国家主義者」の株だった。その株は日本と琉球だけではなく、地球上にあまねく深くはりめぐらされていて、そう容易には掘り起こせそうになかった。だからできそこないの料理となってしまった。これを機会にもうすこし掘りさげてみたくなった
(校了)041220