「しまぬ
―奄美大島、津代の寄合いから―
一六〇九年から四百年目に
二〇〇九年四月十二日
鹿児島県奄美市名瀬末広町七の十一
「三七の会」事務局・森本眞一郎
〇九〇・五九四四・二三八四
今日、ここ
「三七の会」の一人として、心よりオボコリ(感謝)いたします。
私たちはなんのためにここ津代の地で寄合っているのでしょうか?
ヲゥギ(荻)ハギで忙しい季節、ここ津代から何が問われているのでしょうか?
ワン自身は、現在の自分と明日の奄美のありかたを問うためです。
具体的には、四百年前の一六〇九年旧暦三月七日という日を忘れないためです。
なぜならここ「津代の戦い」は単なるイクサの一つではなく、奄美と琉球の島々の歴史上、まさに天下分け目の戦いが始まり、圧倒的な薩摩軍団による火縄銃の火蓋が切られたという歴史的な時と所だからです。
私たちは「関が原の合戦」(一六〇〇年)を学んできました。が、それは日本列島が徳川方と豊臣方に分かれた日本人同士の権力闘争であり、私たち亜熱帯のコーラル文化圏の島人とは縁もゆかりもない遠い異国での政権抗争だった、くらいに軽く考えてきました。
ところが政権を取った徳川幕府から奄美・琉球侵略のお墨付きをもらった薩摩の黒船軍団が、一六〇九年三月七日、琉球弧のリーフ内に「侵略」してきて、その後大変なことになった、ということなどは家庭や学校でも全く教えられてきませんでした。自分たち自身の固有の歴史をです。
ここでいう「侵略」は、「侵攻」という概念とは中身が全く違います。
「侵攻」とは、アメリカのイラク侵攻のように相手国に攻撃を仕かけてその領土を侵す行為ですが、「侵略」は、自衛でなく一方的に相手国の主権・領土や独立を奪う行為のことです。
奄美の島々は大島各地と徳之島での戦いに敗れ、薩摩が直轄して経営する植民地(領土)となり、現在の日本国鹿児島県民になったのでした。琉球国は明治十二年に日本国に併合(廃国置県)されました。ですから、北海道でシャモ(和人)に抵抗しながらも併合されたアイヌの歴史と同じく、四百年前の琉球弧各地での戦いは、厳密な意味で琉球弧の主権・領土・独立の侵略にあたります。
国連の人権委員会は二〇〇八年十月三十日、日本政府に対して「アイヌ民族および琉球民族を国内立法下において先住民と公的に認め、文化遺産や伝統生活様式の保護促進を講ずること」と勧告しました。人種差別・マイノリティーの権利として「琉球民族」が明記されるのは初めてです。勧告では、「彼らの土地の権利を認めるべきだ。アイヌ民族・琉球民族の子どもたちが民族の言語、文化について習得できるよう十分な機会を与え、通常の教育課程の中にアイヌ、琉球・沖縄の文化に関する教育も導入すべきだ」と求めています。
さらに、ユネスコでは今年の二月二十一日、我々が話している「シマグチ」も日本語の「方言」ではなく、独立した「奄美語」であり、しかも絶滅の危険にあると発表したのです。
一六〇九年以降、我々の環境と暮らしぶりは、哀れなまでに変わりましたが、薩摩はなぜ奄美・沖縄を侵略したのでしょうか?
その背景は色々あるようですが一点だけあげますと、薩摩藩の財政赤字がありました。赤字の原因も一つだけあげますと、過剰な武士団の存在がありました。全国の士分は平均して人口の〇・五%(千人に五人)でしたが、当時の薩摩藩はなんと四〇%(千人中四百人!)も占めていたのです。
明治維新の前後には島津家の殿様たちや、ヒロイン篤姫・ヒーロー西郷隆盛など数々の物語が生まれました。しかし、所詮は、薩摩藩の超級のドル箱だった奄美での黒砂糖地獄の下支えがあったればこその物語りでした。明治以降、日本の士族たちは官僚や軍部となり、今度は台湾・朝鮮・中国などアジア各地へ侵略していきました。それを可能にしたのも、薩摩藩が奄美・沖縄を一六〇九年に侵略したことで、異国での植民地経営のノウハウを蓄積していたからです。
明治から以降も、鹿児島県は奄美にだけは県の予算を回さないという独立経済の差別と支配を続けました。
戦後、米国軍政府から復帰して五十六年目の現在も、「奄美群島振興開発特別措置法」によって、日本国と鹿児島県は、世界でも貴重な奄美の資源を収奪する環境破壊を続けています。
しかも、日本の歴史の中で奄美の詳細な歴史や支配の実態などはいまだに封印されたままです。
ここ笠利湾からは、奄美と日本の四百年間の歴史の大河が一望に見わたせます。
これからの我々は、奄美の歴史を一六〇九年を軸にすることで、沖縄、鹿児島、日本などと堂々と渡りあうことが必要ではないでしょうか。
汝きゃ我きゃまーじん(共に)、津代のゆらいを毎年、積み重ねていきましょう。そして、ここから奄美のシマンチュとしての誇りと未来像を内外に発信していこうではありせんか。
奄美の歴史を知るために、ぜひ読んでいただきたいテキストを二冊、紹介させていただきます。お二人とも歴史の専門家ではなく、ごく普通の奄美出身のシマンチュです。奄美のシマウタ、八月踊り、暮らしかたなどと同じく、普通のシマンチュの才能はスゴイ!とつくづく思います。
奄美人の一六〇九年から現在にいたる四百年間の歴史とアイデンティティを問うたのが、『奄美自立論』の喜山荘一さんです。薩摩藩の法律(「大島置目之条々」「大島御規模帳」など)によって、奄美は「琉球の仲間ではない、大和の仲間でもない。だが、時と場合で琉球の仲間のふりをしろ、大和の仲間のふりをしろ」と強制されたため、奄美人は無国籍の状態だった。それを解消するにはそれぞれが還るべき場所を確保すべきだと説いています。
『しまぬ世』の義 富弘さんは「三七の会」のメンバーで、古代から薩摩の奄美・琉球侵略までの歴史を克明に記してくれました。
我々はこの二冊によって奄美の歴史を身近に感じることができるようになったのです。ぜひ、手にされてください。それぞれの歴史を忘れたり知らない者は将来、同じ過ちを繰り返すからです。私たちがつくる歴史は未来からやってくるのです。
「しまぬ世」とは、「しま(シマ&島)の世」のことで私たちの造語です。
奄美には八つの島に、二百五十あまりの部落(故郷・ホーム)があります。
私たちは将来、琉球弧(南西諸島)の島々がお互いに寄合って、「しま世界の自立と連帯」のために、「しまぬ世連合」(「しま連」?)のようなゆるやかな連合体ができればいいなと思っています。
私たちが目ざす「しまぬ世の自立と連帯」とは、それぞれの「しま」が自前の生き方でつながっていくことです。
奄美の二百五十あまりのシマジマは、それぞれの遺伝子を個性的に生きています。
だから、どこの「しま」もユムタ(ことば)や顔がそれぞれに違うのです。
「それは水が違うから」だとウヤフジガナシたちは八月踊りや唄で伝えています。
深い宇宙観に根ざした自然と祖霊への畏敬が「しま」には散りばめられています。
「親先祖拝でぃ、神拝め」ということわざがあります。
「神の上に水がある」とユタ神の阿世地照信さんは唱えました。
「自然ち逆らわんにっし 生きりゅんくとぅかもやぁ」
これは、築地俊三さんに「汝んぬしまぬ世ちば?」とたずねたときの答え。
「忘れぃんしょんなよ〜忙なかぁあたんてぃむ〜忘れぃんしょんなよ〜しまうた〜しまぐち〜しまをぅどり〜すら〜忘れぃんしょんなよ〜」と即興の詞で唄ってもくれました。
シマユムタやシマウタには、結の心や太古から「しま」の自然に根を張ってきたしたたかで、しなやかな「しまの力」が秘められています。
私たちは、島宇宙(銀河系)の中の「地球」という一つの「しま」の中で生かされています。これからは、それぞれの「しまぬ世」が多様につながり、四百年向こうの結びの海を渡っていきましょう。
そのためには・・・・・・