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これまでの「店主のつぶやき」をあらため、アナログメディアに書いてきたものを収めています。 更新は少ないかと思いますが、バックナンバーを読まれた感想などもお寄せください。 2001年は、地元紙・「南海日々新聞」の「リレーエッセー・つむぎ随筆」に1年間(8回)連載の予定です。ここでも、同時掲載いたします。 |
南海日日新聞つむぎ随筆
二〇〇一年六月二十一日付
森本眞一郎
「確かな一歩」
通れぬ道にも記憶がある。
古来、ナゼのカラ浜とアリヤを結んでいた山ごえの有屋道。それとは別にヒンギ道がある。
奄美和光園の奥つき(旧納骨堂と火葬場や霊安室兼解剖室)から登る道だ。ハンセン病の
元患者たちが、世間の風を求めて踏みしめてきた。峠からの道は、工事で共にとざされている。
流れぬ川も記憶する。
名瀬のサデクマトンネルの工事で、ビッキャ石近くのヤマトゴが消えた。大和川からヤキ島、
テッポー浜、ハト浜一帯の陰や岩石の間は、昭和十年までらい病者たちの居住地だった。
近代日本は、放浪するしかなかったらい病者を、欧米人に対する国辱として一掃を図った。
一九〇七年に「らい予防法」。奄美地区の浮遊患者たち百十六名が、一九三五年から鹿屋
の星塚敬愛園に強制収容された。内務省は「民族浄化・神の国」をめざし、一九三七年に
「らい病根絶二十年計画」を発表。それ以降、県衛生当局と警察は、九割をしめる在宅患者
たちを行政と住民の協力により、しらみつぶしに収容所へ送りこんだ。
らい患者たちは社会に害毒をまきちらす危険人物という「死の病」を宣告され、家族と共に壮
絶な差別にあった。同時に奄美では、「郷土浄化」のために、カトリック迫害の嵐が、軍とマス
コミ、教育者の龍野定一たちや住民の間に吹きあれた。
戦後最大の悪法は生きのびた。奄美和光園は、戦時中の一九四三年にスタート。八百七十一
名の入所患者があり、三百七十三名のマブリたちが終生隔離の中で後生へ旅たった。現在、
百一名、平均七十七歳の方々が園内で静かにすごしている。
責任はオクニだけ?
たとえば私(たち)は、税金を乱用する政官業の癒着や、小泉船長の「日本丸」が目ざす、誤ま
った歴史(教科書)作りなどを無責任に黙認している。
人権蹂躙の国は断罪された。これから判決に血肉を通わすのは、地域の行政や私たちだが、
何よりも和光園当局の姿勢が問われている。一昨日も宮城園長へ実のある謝罪と対応を要望
したが、ノーコメントだった。真相究明と再発防止のために、一人一人の確かな一歩を進めたい。
(注・当時の情況を正確に伝えるため、あえて「らい」という表現を使用しました)
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