☆「歴史を検証し、未来へつなぐ、意義のある歴史的な1年」??
また、なぁしゃ(明日)!
▼ 薩摩侵攻400年記念のシンポジウムや講演会が奄美や沖縄、鹿児島の各地で開かれた。歴史を検証し未来へつなぐ取り組み。呼応して、鹿児島と沖縄の県知事が「交流拡大宣言」を行い、両県議会議長も「共同宣言に」調印した。
(南海日日新聞12/29「南海天地」)
▼ 今年は薩摩藩(鹿児島藩)の奄美、琉球侵攻から400年。徳之島のシンポをはじめ奄美内外でさまざまな催しがあり、出版も相次いだ。学術的なシンポジウムでは「琉球国之内」がキーワードの一つになり、島津氏の侵攻、支配をとらえ直す歴史的な意義のある1年だった。
「400年」関連事業に行政レベルも呼応した。沖縄、鹿児島両県知事が11月21日、奄美市笠利町の奄美パークで交流拡大宣言し、両県議会議長も共同宣言に調印した。半面、住民グループは「奄美が搾取され続けた歴史検証や総括が欠けている」と反発。薩摩支配をめぐる奄美の複雑な感情があらためて浮き彫りになった。
民間でも検証、交流事業が活発に行われた。沖永良部島では島役人の和睦交渉を伝える唄「アンマメグヮ」を再現。東京では「奄美と沖縄をつなぐ」と題し、トークセッションと島唄イベントがあり、神戸では徳之島の視点で考えるシンポと島唄、七月踊りを開催した。
奄美・琉球の交易の窓口となった指宿市山川では400年を新たな交流と位置付ける記念事業があった。
(南海日日新聞12/30「09年回顧(4)歴史」
☆ それぞれの「しまぬゆ」へ!
※ 早朝5時の船で次女(高1)が宮崎からシマに帰ってきた。
大阪の長女と福岡の長男はそれぞれの年の暮れだ。
10時に店をあける。
シャッターの前で黒白のノラの親子がうずくまっている。
正月まであと2日、の割には年の瀬感がまるでない。
中心商店街に活気がない。
あまみ庵(1F)はさらにない。
メディア利再来ル(2F)の松島君が明日で辞める。
今日から新人の国さんが入ってきた。
人件費、家賃、水光熱などの固定経費がかなりきつくなった。
おおいに申し訳ないが、出版社などへの売掛金も年を越さざるをえない。
政府系の年末・運転資金の融資を断られた。
預金の切り崩しもあとがない。
創業1989年。
新規になにかを!と算段してきた21年。
アレもコレもと網をはってきた。
しかし、これからはサカナが見えない。
来年からどうなることか、闇の中。
次女と3女(中3)が社会に出るまで路はまだ遠い。
この歳と景況では転職も困難だ。
生きていればなんとかなる、と信じて生きていく(しかない)。
1950年
アマミのシマがワキャ(ワンたち)を産み 育ててくれた
・・・マツコ&シンユウ・・・
・・・ヨーコ&ワン&キョーコ&ヒロミ&・・・
今 ワンの子どもたちを育てさせてもらっている
・・・みちこ&わん・・・
・・・ゆゐ&ひとまろ&みこ&みのりこ&・・・
宇宙からの確かな命のリレーだけはになっている
水は〜天海(あま)から〜もらい水〜
アマミズム?!
(^ム^)
ありがたい
それで十分
よく生きた
還暦まであと2日
それぞれの「しまぬゆ」へ!
☆ では、問おう。
この400年、「差別」、「搾取」、「圧政」だけではくくれない奄美史とは?
※今日の南海日日新聞(12/27)の
「群島リポート」
この一年間の琉球新報社との共同企画
「未来への羅針盤」のまとめだ。
『400年』合同企画を終えて
歴史観の再構築を
奄美史考える指摘相次ぐ |
■ 「地名伝承の誤り」
沖永良部島の先田光演氏の報告。
■ 「謝名親方の評価」
沖縄からの報告だったか
■ 「キーワードの一つ『琉球国の内』」
弓削政巳氏の報告
3点ともとりわけての報告ではなかった、ワンには。
1年間の新聞連載上で、ワンが唯一瞠目したこと。
それは、「『大島代官記(序)』を著したのは、島役人ではなく鹿児島系役人」という弓削さんの指摘だ。
その信憑性はともかく、年来、そうではないかと疑ってきただけに首肯できるし、大きな成果だろう。
しかし同時に、そのことが奄美の住民たちにどれだけの影響力があるのだろうか。
「大島代官記」の「序文」をこれまでにどれだけの奄美のヒトたちが読み、それを問題としてきただろうか。
奄美と鹿児島400年の植民地的現実がそこにある。
だから、植民地としての郷土教育が必要なのだ。
一握りのヒトたちから普通の人たちへの情報が。
今年の後半、浮かび上がった大きな課題はこのことだった。
▼ 奄美の人々は、ともすれば近現代の差別体験を基に歴史を語りがちだが、「400年」は「搾取」や「圧政」だけではくくれない近世奄美を考える多くの素材、問題を投げ掛けてくれた。鹿児島・沖縄を含めた歴史観の再構築が求められている。(久岡学記者) |
この連載で、「歴史観の再構築」をするほどの新知見がどれほど報告されたのだろうか。
他紙の特集や出版、シンポジウムなどのイベントについてはここでは省く。
ワン自身が不勉強なのでこころもとないものがある。
ただ、なんのための琉球と奄美の合同企画だったのか、という疑問だけが残る。
鹿児島県からは、奄美・琉球に「出兵」したお家の事情。
奄美からは、侵略をめぐる経路や侵略後の直接・間接による巧妙な支配のしかたとされかた。
沖縄県からは、侵略後に琉球王府が「独立国」を保持してきたしたたかさ。
この辺にしぼられないか。
あげー(嗚呼)!
奄美諸島人不在の、研究者たちの歴史解釈ばかりではなかったか?!
「アマミの現在」と「サツマ・リュウキュウの1,609年」。
その連続性をテーマにした報告は皆無だった!
それこそが最大のモチーフであるべきと信じてきたのだが。
※ 新聞以外でも、「一字姓」、「系図差出(上)」、「册封(さくほう)体制」など、
近世間、アマミ内外の支配者たちが仕組んだ新機軸が前面になり、
現在的な島民への「差別」や「搾取」や「圧政」などはなにひとつ浮上しなかった。
「薩摩の侵略時代は暗黒時代ではない」。
オキナワの研究者のようにアマミの発表者たちも、「しかし、したたかに・・・」と付言したいのか?
支配の仕方からだけでは、支配されてきた(いる)シマンチュの思いやくらしかたはみえてこない。
その内実に光をあてて、「400年問題」は検証・顕彰されるべきだ。
歴史の内実や現実から逃避した美名だけの「未来志向(?)」。
そこには、なんら具体性・普遍性はなかったのだから。
これではアマミの人びとのアイデンティティは宙に漂い続けるばかりだ。
そのことの課題を引き受けていくしかないのだろうか。
なぜ、こうなったのか?!
鹿児島からの「差別」、「搾取」、「圧政」などの大波小波が、近世から現代の深山までうち続くアマミの歴史と現実。
「薩摩支配の代理機構としての奄美の島役人たち」
確かにそうだ。
それをテコにして、近現代の鹿児島の奄美支配の内部構造も問われなければならない。
「総括の主体は奄美」という言説も発信された。
もちろんそうだ。
それも奄美と薩・琉(鹿・沖)との関係性のもとで相互に検証されるべきことだ。
しかし、中身のない「交流拡大宣言」のほかには、薩琉からの総括はなんにもなかった。
今年は、400年を相互に検証する始まりとはなりえなかった、というのがワンからの総括だ。
またもや、内(自)からの重いふたで封印したかのような「これからの奄美諸島史」。
現実的な課題は今もそこにある。
「歴史観の再構築」や「歴史観を見つめ直すきっかけに」という表現も奄美内部から飛びだした。
またしても、支配者側からではない島民側からの歴史の封印だ。
歴史の因数分解を解析するだけの研究者たちがそこにいた。
そのレベルからは、「しまぬゆ」で生死をリレーしてきた(いる)普通のシマンチュたちの歴史と現実はみえてこなかった。
そのことも再確認させられた、この一年。
我々の「しま」の歴史と宇宙は、なま(今)くま(ここ)どぉ!
毎朝、月が立ち、毎夕、月がこもる。
やがて、2009!もひととせの大三十日。
やね(来年)らがも流れ続ける1609!の黒い潮。
400年をめぐる総括の主体は、歴史「学」が専門の「学」者や思想「家」などではない。
「知の職人」たちでもさらさらない。
チ・チ・チ!
植民地世界の「地」で根を張り、「血」をバトンする。
「しまぬゆ」をつないできた無数の「イのチ」たちだ。
ヒトでいえば、アマミにゆかりの無数の「い・の・ち」の「生活者」たちだ。
そこへとどか(け)なかった1609!
これが奄美のワン(たち)の現実だ。
それぞれの現実から2010!というそれぞれの歴史が始まる。
☆ ケイキがなしに花一輪!
※ 吉田慶喜さんの仮通夜(12/22)でのこと。
奥さまの美佐子さんが同席者たちに語りかけた。
「私は終戦を神戸で迎え、徳之島に帰った。
仕事を求めて名瀬に出てきた。
森本さんのお父さんの洋裁学校に通っていた。
(☆ワンが生まれる前後の頃だ)
配給物資をもらうため、名瀬市役所に通いつめた。
でも、当時の住所変更届けはとてもきびしかった。
そのときの係りが吉田だった・・・」
※ この話を聞きながら、吉田さんの著書のことがありありと浮かんできた。
『地方自治を住民の手に―検証・1960年の名瀬市財政再建闘争』
(1990年12月28日、自費出版)
この本は、ワンの愛読書。
復帰後のアマミとカゴシマの関係(闘争)が、「アマシン」のピンハネを通して現場から聞こえてくる。
でも、ここでは米軍時代、20歳足らずの吉田さんの仕事だけを紹介する。
吉田さんは1930年、笠利町屋仁集落の生まれ。
「私は1948年12月25日付けで名瀬市役所に就職した。(略)私は教員を希望したが、思想的傾向から採用されず、ようやくこの職にありついたのであった。当時、名瀬市の人口は3万人足らずで、職員は100人もいなかった。」(15p)
(☆ 60年後の現在、名瀬市は笠利町・住用村と合併しても人口は3万9000人前後、職員は500人以上だ)
「入って間もない正月の寒い日、いまの御殿浜マンションのところに厚生寮という長屋の救護施設があって老人や母子家庭など貧困者が10数世帯収容されていた。そこの身寄りのない白髪の老婆が亡くなった。餓死であった。黒木、萩原両主任と私が埋葬役である。二人は手慣れたもので、棺に納めて大八車にのせて、一人が前を引き、二人が後からおして永田墓地まで運んだ。途中で棺箱にはってある白い紙がみるみる黒くなりだした。「ワー、シラミだ・・・・・・」と身の毛がよだつ、それでも我慢して埋葬をすませた。ニ、三日はメシもまずい。こういうこともあえてしなければならないのが自治体に働く者の仕事であるということを思い知らされた初体験であった。社会保障制度もない時代である。」
(☆ 冠婚葬祭の職業などもなかった時代だ)
「私は、6ヶ月目に人口受け入れ係に配置された。当時は深刻な食糧難の時代で、それも配給されるのは米軍の放出物資のメリケン粉などロクな物はない。それでも名瀬の方がまだましだというので終戦になって農村や離島に復員した人びとが転入をはじめていた。名瀬市ではそれをすべて無条件に受け入れたのでは食料の確保ができないということで、1947年の11月から、@農村で生活能力のある者、A要救護者、B就職先のない者は、転入を認めないという受け入れ基準をつくって、人口受入係で審査して許可がなければ名瀬市民になれなかった。その最初の係が、現市長の成田廣男氏で、そのあとを20歳足らずの私にやれというのであった。」
(☆ 成田さんはワンの家の向かいに住んでいた関係で、1987年の結婚式のときには唯一の来賓祝辞を頼んだ。当時は企画調整室長でとても誠実なお方だった。)
「私が出勤するときには、机の前には2,30人の転入申請者が列をつくって待っているという毎日である。ことに1949(昭和24)年は大型台風が連続して襲ったため、風水害と病害虫の発生で不作となり離農者がどっと増えた。北の日本本土への渡航は遮断され、南の沖縄へも自由に行けないので名瀬市へ押しかけざるをえなかった。来る日も来る日も何十人という人を一人ひとり審査して転入の可否を決めるのだから大変な仕事であった。内心「新しい憲法の『居住の自由』の権利をおかしているなあ……」という自責の念にかられながらの仕事だ、矛盾どう着も甚だしい。それでも人びとのさまざまな生きざま、しゃくし定規にはいかない人間社会の内情、人間的判断の機微(きび)というものなどを若いなりに教えられた。一年半の間に一万人余の人が私が受け持つ関門を通って名瀬市の市民となっていた」(16p)
※ ワンのオッカンの親戚たちも食と職を求めてかなりの人たちがカサン(笠利)からナゼに転入してきた。
奥さまのお話と吉田さんの本を通して、米軍時代のアマミ(大島)の情況が自分のこととしてありありと伝わってくる。
56年前の今日、「アマミ」が「ソコク」に「フッキ」した。
「アメリカ」から「ジャパン」への「クリスマスプレゼント!」として。
「こんなはずではなかった・・・・・・」
というアマミと鹿児島県との400年間の現在がある。
吉田さんのきのうの葬儀では、棺に眠るお顔に花を一輪お供えできた。
現在も闘い続けている私たち「まちなみを守る」住民運動の生みの親。
ケイキがなしに心からのとうとがなしを!
※ 奥様がワンに話したこと。
「吉田は、温厚な性格だから政治家には向いていなかったかも。
本人は、研究者になりたかったようです」
☆ 巨星 逝く
吉田慶喜さんが、今日、旅たった
ワンが敬愛する巨星
その背中から、無尽蔵に学んできた
飾りのない強靭な生き方を
とうとがなし!
☆「奄美TV」&「凍てつく南島」&「古代〜中世の奄美諸島」
※12月17日(木)、奄美TVの「ほっとけトーク」に生出演(19時〜20時10分)。
「島津藩による奄美・琉球侵攻400年」
「400年記念事業の総括」
出演は、薗博明&花井恒三&ワン。
東京からのコメントも(喜山荘一さん、三上絢子さんなど)。
時間のわりには、思いの一部だけ。
1997年からのコマ送り。
総括としては、「奄美郷土読本(歴史編)」の採択が一番の成果だ。
それと、奄美(に係わる人たち)が「1609年」という歴史的数字を認知できたこと。
鹿児島県の歴史認識がまるでダメだったこと。
まだまだあるが、まだまだつづくこと。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※18日(金)は、東京から徳之島二世の古勝信次さんが来店。
ブログ・
「凍てつく南島」で熱い思いを発信されている。
深夜まで飲む。
これからは、彼らの時代だ。
ワンが新聞や雑誌にモノを書き始めたのは30代後半からだった。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※きのう19日(土)は講演会。
「琉球王国の形成と奄美群島
ー古代〜中世の奄美諸島ー」
@高梨修(奄美博物館)
「考古学からみた日本文化の南漸」
A阿部美奈子(法政大学大学院)
「おもろさうし」の言葉
B中本謙(琉球大学)
[琉球方言の形成」
C吉成直樹(法政大学沖縄文化研究所)
「神話にみる奄美諸島の南方的要素」
※ それぞれのお話についてはあとでコメントの予定。
これから、奄美ホライゾンのシンポと祝賀会に行ってきます。
この年末、毎日が1609!
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜110
12/13(てぃだ=日) 旧10/27
(水の兄 辰)こ(子)読み
|
☆ 2,009年の後半(『飛礫65号』の原稿)
※ 『飛礫(つぶて』から、2009年に関する原稿を依頼された。
年内の「イベント」まで見届けてから、と断ったが、なんと年内で休(廃)刊になるそうだ。
最終号!とてもありがたいことだ。
活字として記録されるから。
今年後半、ワンが係わってきたコトを、メモリー代わりに喜んで引き受けた。
わずか、3〜4日だったが、陳情書や要請書や新聞記事を引用したから楽だった。
※ ついでに、「TOP」を少し整理した。
『飛礫65号』2009年のアマミからー1,609年の始まりへ」にUP。
(今日、送ったばかりのゲラから)
※ 「2009年の検証と総括と展望」は、年明けからやります。
毎日、毎年がアマミとワンには1,609!
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜109
12/12(にちゃ=土) 旧10/26
(金の弟 卯)こ(子)読み
|
☆郷土教育と植民地研究を!
※ 久しぶりに考古学気鋭の高梨さんの講演を聞く。
奄美生涯学習講座 第13回(12月12日)
薩摩藩侵攻400年
奄美の歴史の見方・考え方
高梨 修(奄美市立奄美博物館学芸員) |
以下、レジメから。
1 歴史はひとつではない
2 奄美の歴史の流れ
3 奄美の歴史の特徴
(1)複雑な行政統治
(2)日本史で時代区分が明らかにされていない地域
(3)国家境界領域
4 奄美の歴史はどう語られ、どう語るのか
奄美諸島史の回復
奄美を「学ぶ」ことは奄美にも必要
(奄美における郷土教育)
ーーーーーーーーーーーーーーー
あまり、違和感のない内容だった。
3人の子どもたちに奄美の歴史を刷り込むことに照準を合わせているようだった。
この講演(1時間半)で、高梨さんはリキiをいれ、まるで論敵(?)への「宣戦布告」のよう。
「考古学はやめてもいい(奄美の歴史教育のためには?)」の発言には、さらにびっくり。
彼をここまで熱くする「アマミ」とは?
ただ、1「歴史はひとつではない」の中で、
「奄美社会とは、鹿児島・奄美が混合する集団である。
お互いの地域の個性を維持しながらも、長い年月(歴史)の中で、双方の社会の融合が緩やかに進んでいる」
として、シマグチとカゴンマ方言との共通語を例に引いていた。
奄美と鹿児島(ヤマト)における基層社会の比較(相対化)の方が奄美のヒト(教育)には重要だと思った。
あれこれヤマトとの共通項でくくられることで、結局はこわ〜いくくられかたをされてきたからだ。
たとえば、蝦夷(アイヌ)や南島をヤマトに囲い込むやり方。
素材を「日(鮮・琉・奄・ユ)同祖論」に象嵌していく学問。
結局は、天皇(制)に行き着く戦前の同化(五族協和などの)支配政策のように。
例えば、奄美博物館の年表にある「大和朝廷時代(616〜894年)」。
また、「日本の律令国家と関係がないとは言えない(喜界島)」という発言。
これらは、素人のワンなどにも気になるところだ。
「チカマ家文書」の内実も含めて、「これからの奄美諸島史」を議論するするときには重要なファクターだ。
その結果、専門家たちによって、「南島」社会は古代からヤマト社会の版図としてあったかのように均(なら)されていく。
経済学もそうだが、歴史学や民俗学も「国学」になる危ないガクだ。
なぜ「国学」が危ういか。
「国防」と同じで、「地域住民の生活防衛」をしないからだ。
それでもワンとの共通項は@郷土教育の重要性を力説したこと。
A奄美を「鹿児島県」の植民地研究の俎上にのせるべきだとする主張。
「郷土教育の内容」や「植民地研究の規定と仕方」など、ゆっくりお話してみたい。
奄美諸島の現代社会は、「鹿児島県」として歴史的・政治的に醸成されてきた特殊な社会構造の中に置かれている。
植民地的領土化の結果、「鹿児島県」に帰属した奄美諸島において、その植民地的社会構造は、完全に解体されたわけではない。形骸化しながらも、そうした植民地主義的意識は、「鹿児島県」に確実に生き延びている。」
高梨 修共著(『琉球弧・重なり合う歴史認識』森話社、2007)から。
|
^^^^^^^^^^^^^
※ 来週(日)奄美大島であるイベントの前ぶりかと思ったら、少し違っていたのでホッとした。
↓
奄美群島の情報誌「ホライゾン」創刊15周年記念シンポジウム
「見えかくれする薩摩侵攻以前と
以後の奄美諸島」
これからの奄美諸島史
日時:平成21年12月20日(日)
会場:奄美サンプラザホテル2階ホール
時間:午後3:30より 6:00(無料)
|
このシンポは、今のところ、ワンには要注意。
先に採択された「奄美郷土読本(歴史編)刊行」の方向性を左右する皆さんが発表するからだ。
「圧政に苦しんだ島民のことだけが知られているが、島民は意外にたくましく生きてきた。歴史観を見つめ直すきっかけに」(南海日日新聞)
「薩摩藩による圧政の時代に、強く前向きに生きる当時の奄美の人々の生活が浮かび上がってくるのでは」(奄美新聞)
「圧政」のもとで、「意外に」「たくましく」「強く前向きに生き」た「奄美の」「島民」の「生活」を「浮かび上が」らせる。
そのことで、「歴史観を見つめ直すきっかけに」という趣旨である。
しかし、文化や民俗面からのアプローチで、奄美の歴史の深みにどれだけ迫れるのだろうか。
なによりも、2,009年も終わりの奄美大島でのシンポである。
奄美と鹿児島県との相互の歴史認識を現在の問題として問うことはしないのだろうか。
「うらみつらみを超えて、未来志向で・・・」ということか。
それでは、2009年をめぐる為政者たちの方法論と同じになってしまう。
会の内容が、ワンの妄念や杞憂であることを心から願っている。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
『飛礫』が廃刊になるというので2009年の原稿を引き受けた。
きょう、ゲラが届いた。
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜108
12/3(き=木) 旧10/17
(水の兄 午)こ(子)読み
|
☆ 拝み山から神の風!
※ 2002年の1月、名瀬市の都市計画「末広・港土地区画整理事業」を見直すため「まちなみを守る会」を立ち上げた。
同じ年の夏、「おがみ山トンネルを考える会」も立ち上げた。
両事業は、ミチ(100億円+150億円)を通しての一体化(250億円)計画だったからだ。
両事業とも地域住民には正確な情報が公開されていず、将来ビジョンもないままだった。
「あまみ庵」も立ち退きを迫られ、死活問題であった。
それから1年後、ワンがガンになり、ワン自身の死活問題となったのだが。
(^ム^)
※ それでもまぁ、この間、いろいろやってきたもんだ。
おがみ山すそを流れる久里(くさと)川の上流に、無用な「砂防ダム計画」が浮上した。
そこは奄美のユタ神さまたちが水神を祀る聖地だった。
「おがみ山トンネル」のために立ち退きを迫られる久里町の老女軍団が先陣をきって立ち上がった。。
※また、瀬戸内町の網の子峠では「ゴミ最終処分場計画」も浮上した。
奄美固有の貴重な動植物たちの宝庫である山川を人のゴミで埋めつくす計画だ。
当然、海たちもたまったもんじゃぁない。
測量調査の立ち入り時には、瀬戸内町の住民と共に、体を張って阻止した。
そのあと、住民たちは瀬戸内町を告発・提訴。
そのときの事務局長が『しまぬゆ』の著者、義(よし)富弘さんだ。
義さんは裁判を闘いながら原稿に取り組み脱稿した。
でも、『しまぬゆ』の刊行を待たず、生活のため広島県の呉市に出稼ぎに。
外国航路の管制室勤務、今日、電話したら船を観に行っていた。
※ なつかしいというか、ここ数年間、ワンの軸足はほとんどこれらの住民運動とともに回っていた。
敵は、奄美・鹿児島県の政官業と、それをおし進めている国土交通省だ。
※ 「ゴミ最終処分場計画」は裁判で敗訴したが、計画自体は断念させたから結局は勝利した。
「砂防ダム計画」は、現在、県が測量や工事ができない状況にまで久里集落の住民たちが追い込んでいる。
そして、今日の朝刊では、「
奄美・おがみ山バイパス 本体着工先送りへ 鹿児島県が方針転換」に。
南日本新聞1面のトップ(実は民主党県連からのリーク)記事だ。
奄美の地元紙はおそらくあすの掲載だろう。
今日、取材に走っているようだ。
奄美市長になったばかりの朝山新市長。
彼は、選挙公約で「おがみ山トンネルの着実な推進」を掲げていたから、「凍結決定」にはさぞ冷や水だろう。
「中止」でない「凍結」は、いつか「解凍」すれば「再開」される。
だから、安易な予断は許されないが、大きな一歩前進にはちがいない。
なんでも続けてさえいれば、このようにいい日和もあるものだ。
※2年前、「まちなみを守る会」の戸内恭次(代表)を民主党の奄美市会議員に押し出した。
ムダで不要不急のアマシン事業を見直すために、みなおしの運動を展開してきた。
その一つの結果が、今日の
「本体着工先送りへ 鹿児島県が方針転換」だ。
トンネル事業の総事業費140億円以上、うち65%はすでに予算消化されている。
が、まだ50億円以上のむだな事業費が残されている。
奄美の業者は、トンネル工事費の恩恵はあまり受けない。
鹿児島県の業者と本土のゼネコンがごっそりもっていくだけだ。
※ もっと奄美の住民が必要とする事業に使え!
スローライフの奄美にこれ以上のトンネルはいらない。
生活関連の産業・医療・福祉・教育などに回すべき、と。
しかし残念ながら、今のアマシン法では、基盤整備(コンクリート)事業にしか使えない。
それも、鹿児島県が窓口になり、ピンハネのしほうだいだ。
名瀬のまちなみを壊し、周辺住民を追放する「おがみ山トンネル」。
南部大島の山波の下を通す「網の子トンネル」。
どっちがベターかとの選択だ。
※聞くところによると、地元・瀬戸内町の議員や業者のホンネはどっちのトンネルにも反対だという。
@トンネルのストロー効果により、地元の消費行動がさらに奄美北部(奄美市と龍郷町)の商圏に吸われてしまう。
A6,8キロものトンネル事業(約150億円)でも地元の業者にカネは落ちない、それよりは沿岸道路の整備が必要だ。
だったら、地元から早く声を上げてほしかった。
ともにアマシンの有効な使い方を見直していけるのに。
でも、今からでもおそくはない。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※ それにしても、ほうらしゃむんじゃぁ。
これも2009年の大きな成果だ、現時点でのワンには。
前回の『奄美郷土読本(歴史編)』の事業化とともに。
今年は、いろいろとストレスの多い年だった。
が、まぁ、「しまぬゆ」には、シマガミのシマカゼが吹くということだ。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
南日本新聞 (2009 12/03 10:33)
奄美・おがみ山バイパス 本体着工先送りへ 鹿児島県が方針転換 |
鹿児島県は、奄美市で整備を進めている国道58号おがみ山バイパス事業(名瀬永田町−名瀬真名津町、約1.7キロ)について、2009年度中着工を目指していた本体トンネル工事を、11年度以降に先送りする方針を固めた。政権与党となった民主党が新年度予算編成で公共事業の抜本的見直しを進め、同党県連も同バイパス事業の「凍結」を国や県に要望していることなどから、方針転換を迫られた格好だ。
一方、県は、同国道で別途進めていた網野子バイパス事業(同市住用役勝−瀬戸内町勝浦、約6.8キロ)を優先し、来年度中にも同バイパスの一部である網野子トンネル(約4.2キロ)建設に着手する方向で、国土交通省などと調整を進めている。
おがみ山バイパス事業については、あらためて地元の意向を聴くなどし、10年度中に計画を再検討する予定。県は早ければ11年度中におがみ山トンネル本体に着工し、13年度が期限となる現行の奄美群島振興開発事業での完成を目指す考え。
民主党が公共事業削減を打ち出していることから、同党県連は(1)地元の合意形成ができていない(2)網野子バイパスの方が事業効果が高い−などの理由で、おがみ山バイパス事業凍結と、網野子バイパス事業の先行整備を主張していた。
同党県連は、今回の県の方針に理解を示しており、年末に大詰めを迎える10年度予算編成に向け、「関係省庁の理解が得られるよう県連としても最大限努力する」としている。
県の方針通り、国の新年度予算に関係事業費が盛り込まれれば、両バイパス事業は国道58号整備事業に統合され、「おがみ山工区」「網野子工区」と位置付けられる見込み。事業統合により、これまでおがみ山バイパスに配分された事業費は、網野子バイパスへの充当が可能になる。網野子バイパス事業には、網野子トンネルと勝浦トンネル(約1.1キロ)があり、勝浦トンネルは既に貫通し09年度中に使用開始の予定。(おわり)
|
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜107
11/27(かねぃ=金) 旧10/11
(火の兄 子)こ(子)読み
|
☆ 奄美初(発)!
『奄美郷土読本(歴史編)』を発行!!
南海日日新聞(11月27日)
「薩摩侵攻400年で副読本
-島に誇り持つ子供の育成へ- 広域事務組合」
奄美群島広域事務組合(管理者・平田隆義奄美市長)の定例会が26日、奄美市名瀬の奄美会館であり、徳永昭雄奄美市教育長が薩摩藩の奄美侵攻400年を契機に、「奄美郷土読本(歴史編)を作成する」と公表した。対象は中学生。2012年度の配布をめざす。徳永教育長は「島に誇りを持ち、地域の歴史を語ることができる子どもたちを育成する上からも重要」と強調した。
副読本の作成について徳永教育長は「奄美の子どもたちは薩摩に虐げられたことは教わっても、『奄美の黒糖製造』の歴史が近世、明治維新で財政的に大きな役割を果たしたことを教えられていない。奄美地域が果たした役割を子どもたちに伝えていくことは極めて肝要なこと」と指摘した。
さらに、「一地域の歴史という事で県当局は消極的だと思うが、薩摩侵攻400年を契機として、広域事務組合で発行することは意義ある事業」と述べ、委員からも趣旨に賛同する意見が続出した。
郷土読本は「奄美の歴史を学ぶことで、アイデンティティーを確立し、誇りを持って奄美の歴史を語ることができる生徒の育成」が目的。中学校社会科の補助資料、自主学習の参考資料として使用する。2100冊と予備の作成を計画。事業費は400万円を見込んでいる。
郷土教育の充実を求めて県議会や市町村議会に陳情していた奄美大島「三七の会」の薗博明さんは「副読本は喜ばしいことだ。古里に誇りを持つ子どもたちを育てるためには奄美の歴史と文化、環境を教えていくことが大切。歴史の真実を伝えてほしい」と述べた。
|
※ いやぁ、こんなに早く「歴史編」の事業化が進むとは正直、予想していなかった。
今年の9月、奄美の12市町村と鹿児島県の各議会に
※「郷土教育充実に関する市町村・県への陳情書」(2009・8・30〜)を提出した。
※ 鹿児県議会では、「そういうことはすでに行われている」などの意見が出たりして、結局は継続審議となった。
しかし、審議したカゴンマの議員センセー方は、傍聴者によると無知だったという。
例えば、
@「奄美語」がユネスコから「絶滅の危険にある世界の言語」として認定されていること。
A明治から戦前までの「大島独立経済」のこと
そりゃぁそうだろう。
@については、今年の2月28日に発表されたばかり。
奄美では地元の新聞(コラムなど)で少し取り上げられたが、鹿児島のメディアではまだかもしれない。
Aは、奄美でもこのことが知られ始めたのは、奄美の吉田慶喜さんや西村富明さんの遠くない研究からだ。
おそらく、奄美諸島のどの市町村誌にも、そして鹿児島県内の関係史にも記述されていないだろう。
そのほか、奄美に係わってきたヒーローたち、たとえば成アキラ、笑ザエモン、大島商社を画策したサイゴーの犯罪などなど、鹿児島県は自らのくさい歴史には一貫してフタをしてきたからだ。
カゴンマチュで奄美と鹿児島の歴史を知っているのは、一握りの提灯御用学者くらいだろう。
しかも、侵略・搾取の内実など、真実の歴史にはふたをしっぱなし、未来と交流を明るく声高にするだけだ。
だからこそ、奄美の真の歴史を白日のもとにさらす、トキがきたのだ。
たとえば、現在でもアマシン(2兆円以上)を悪用して奄美の自然を破壊している現状などを鹿児島県民と日本国民に突きつける権利と責任があるのだ、奄美諸島にかかわるだれもが。
アマミにとっては、カゴシマとオキナワの「交流元年」どころではない。
奄美の今日を基点とした「しまぬゆ元年」、「1,609年を考える元年」に!
そのためにアマミとカゴシマ、アマミとオキナワの関係を相互に確認しましょうやぁ(ということ)。
※ そのための、ホップ。
それを、「真の隣人」?
カゴンマが奄美の地で平気にぬかす「真の隣人」はアマミではなく、オキナワだ。
「トナリは何をするヒトぞ」のアマミとカゴシマの400年間。
「トナリの監獄囚など関係ない」関係の、きのう、今、あした。
奄美の政官業と共にカゴンマと張ることができないのか奄美のヒトよ。
未来どころか明日もないのに、今のアマミは。
それもない、あれもない、だから一歩も前に進めない。
なにかを具体的に進めるための400年目の一歩、それが今、ワン(たち)にためされている。
※ 伊藤知事が言うような、「歴史には色んな見方」などない。
歴史にはその時々の事実があるだけだ。
「色んな見方」というならば、それは、個々の軸足と視点をどこに置くか、の違いだけだ。
支配される側か、する側か。
奄美内部でも、二つの軸足と視点があるのも事実。
外敵はいつも内にあり、だ。
これは、環境やまちづくりの問題などで、奄美の当局(政官の島役人や業者たち)とケンカ(対峙)するときに日常的に露呈してくる。
だから、奄美の二重支配の構造もこの400年間、本質的には変わってはいないといえる。
たとえば、「大島商社」時代(明治初期)に分かれた「人民派」と「役人派}の流れは今もなんら変わっていないのだ。
それが、現在のアマミの最大の関門である。
※ 陳情書を奄美群島で採択したのは、奄美市、瀬戸内町、徳之島町、知名町、与論町の5団体。
継続審議は、和泊町。
委員に文書を配布しただけで審議しなかったのは、喜界町、龍郷町、大和村、天城町。
島外からの陳情書を受け付けなかったのは、伊仙町。
不採択は、宇検村。
※ このような状況からして、コトがスムーズに進むとは思えなかった。
各議会の委員会の結果、採択は半分以下だったからだ。
ただ、各市町村の教育長間ではとても前向きだったと聞いていた。
教育長たちは、奄美出身の教育者ばかり(奄美市のみ市職員から)で、学校現場でその必要性をそれぞれに感じてきたからだろう。
奄美の歴史・文化・自然を教える素材(人材やテキスト)がなかったのだから。
献身的な私家本に頼るしかなかったこれまでの奄美の歴史と文化・・・・・・
※いずれにしろ、奄美群島・12市町村の首長と議員で構成されている広域事務組合、「奄美(しまぬゆ)連合」ともいえる機関での事業化が承認(?)されたということだ。
鹿児島から数年の勤務で毎年去来する小中高校の教職員にも福音になるはずだ。
なによりも、奄美の住民や出身者や関係者たちには、それこそ一家に一冊!のテキストになって欲しいと願うばかりだ。
日本を含む東アジアの旅から奄美のシマに還り、古本屋を20年以上やってきて、ワンが一番のぞんでいたこと。
6年前ガンになり、生きているうちに道筋だけは遂げたかったこと。
研究者ではない一介のフーテンの大きな夢・・・・・・
これこそが、2,009年の奄美の成果だ、現時点でのワンには。
※ 前(10/1、鎮魂譜88)に書いたことがある。
奄美にとっての「1,609年(400年)問題」を問い続けて13年目。
これで、全郡的なはずみがつき、具体的な課題にはいっていける。
奄美諸島独自の「自然・文化・歴史」、それぞれの分野での郷土教育体制が開かれる。
これで、ひとつ、ワンの仕事のめどがついた。
とりあえずは、これまでの「ワンぬ世」に大乾杯!!
|
※ 副読本の内容については、「基本構想」の段階(平成21年度)から「執筆者会議」(平成22年度)、「編集者会議」(平成23年度)にいたるまで、陳情者の「三七の会」としては主体的に注文を付けていくつもりだ。
そのために、余命いくばくもないミセをはってきたのかもしれない。
ここにきて、日本民俗学中心の「奄美学」から、出来事中心の「真・奄美史」への扉が開かれるのだ。
アマミゾ(水平線)に現れる夜明けの日の出を待っていてはだめ、ともにアマミゾから昇るのよ・・・・・・
※ 当局への具体的な注文をお寄せください。
トップランナーの
「与論島クオリア」をチェックしながら・・・・・・
よね(今夜)ぬ せーっくゎ(酒)やぁ やむららん(格別だ)!
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
PS:奄美群島の中学1年生が全員で2,000人しかいないということに驚いている。
今後、子どもたちが増えていく見込みは全くない。
1960年代、ワンが通った名瀬市の金久中学校には、1学年に10〜11クラス、4〜500人はいた。
奄美群島内でも最大の規模だったろう。
今や群島全体でも、その当時の金久中の4〜5校分の生徒しかいないことになる。
この半世記の奄美、就学児童数の凋落ぶりにあらためて気づかされているところ。
くゎぁまぐゎぁ(子孫)が「しまぬゆ」に還ってこれない貧しい経済環境がある。
豊かな長寿世界のそのかげに。
次は、経済問題だ。
これは、奄美の豊かな自然環境や文化の活かし方と不可分の関係にある。
アマシンの有効活用とそのための窓口獲得へ向けて!
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜106
11/22(てぃだ=日) 旧10/6
(金の弟 未)こ(子)読み
|
☆ 地元紙の記事から(11.21宣言)
(1)南海日日新聞(11/22、1面トップ、カラー)
沖縄・鹿児島交流拡大宣言
「奄美搾取の歴史を隠蔽」
住民グループが抗議行動
|
「奄美が搾取され続けた歴史検証や総括が欠けている」として、沖縄・鹿児島交流拡大宣言に反対、中止を求めていた奄美、鹿児島本土の住民グループは21日、奄美市の県奄美パークで開催された「沖縄・鹿児島連携交流事業」記念式典会場前で抗議行動を展開した。(9面に関連記事)
支配下の検証・総括不十分
抗議行動をしたのは趣旨に賛同する20人。式典開始前の午後2時半ごろ、会場の玄関前に集結し、宣言の中止を要求した。グループは「奄美の歴史を隠蔽する交流拡大宣言の中止を求める」との横断幕、プラカードを掲げ、薩摩藩の支配後に島々が受けた困難を連呼した。
奄美パーク側は事前に「施設内で横断幕、チラシの配布はできない」と掲示していた。制止に入った県職員と住民グループが押し問答になる場面も。抗議は式典直前まで続き、式典中にはやじも飛び出した。
式典は鹿児島、沖縄両県の交流拡大へ向けた新たなスタートとなった反面、歴史認識に対する奄美側の反発、住民の複雑な感情も浮き彫りにした格好だ。
抗議活動に参加した「交流拡大宣言の中止」要求する奄美の会の仙田隆宣代表は「宣言には『過去の歴史と成果を踏まえて』とある。奄美を犠牲にしたことが成果というのか。1609年以前は琉球の支配下にあり、鹿児島、沖縄が奄美の不幸な歴史を作った反省がどこにも盛り込まれていない」と語気を強めた。
「歴史が検証されていない」との指摘に対して伊藤祐一郎知事は「人によって見方が違う。何が検証され、検証されていないかはお互いの関係が深化していく中で考えていく問題。世界中の国が過去を持ち、未来に向かっている」と述べ、抗議行動を批判した。(おわり) |
>
伊藤祐一郎知事は「人によって見方が違う。何が検証され、検証されていないかはお互いの関係が深化していく中で考えていく問題。世界中の国が過去を持ち、未来に向かっている」
※ >
「お互いの関係が深化していく中で考える問題」」?
「奄美と鹿児島の関係が深化していく」とは、具体的に何をさしているのか。
「世界中の国が過去を持ち、未来に向かっている」?
国でなくとも、そんなもの森羅万象がもち、向かっていることだ。
「
見方が違う」から、奄美は、鹿児島との関係における、過去、現在の共通した歴史認識から始めようではないかと問い続けているだけだ。
裁判で言えば、400年間の証拠を相互に確認しようということ。
とんでもない、いいがかりだ。
こんなさもしい認識では、未来への道は一歩も開かれない。
ぬすっと猛々しい、悪党どもよ、恥を知れ!恥を!
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
(2)奄美新聞(11月22日)
宣言は「時期尚早」
市民団体が中止求める
21日、沖縄県・鹿児島県連携交流事業があった県奄美パークで、市民グループがプラカードや横断幕で交流拡大宣言の中止を訴えた。
集まったのは奄美出身者や在住者らで作る「『交流拡大宣言』の中止を要求する奄美の会」と「中止を要求する大島の会」のメンバー20人で、両団体は18、19日にそれぞれ宣言中止を求める要望書を伊藤祐一郎知事あてに提出していた。
市民グループは開会前、同パーク入り口で「奄美の歴史を隠蔽する『交流拡大宣言』の中止を要求する」と書かれた横断幕やプラカードを掲げ、薩摩による圧政の象徴であるサトウキビを手に、歴史検証の必要性を訴えた。
同パーク職員が撤去を求めると、「奄美の地で開催するのに、奄美の人間が主張すらできないのはおかしい。利用者に迷惑をかける行為ではない」として撤去を拒否。「薩摩藩400年の歴史検証がなされず、県行政が奄美の歴史を正そうとしていない。交流拡大は時期尚早」と訴えた。
現場で市民グループから意見を求められた平田奄美市長は「意見を言う立場ではない。賛成するお客さんもいる。今やっているのは抗議行動。帰ったほうがいい」と答えた。
「大島の会」の薗博明さんは「400年は現実の問題。島津による植民地支配は近代社会でも関連して続いている。自分たちは過去の事実、真実を語り合おうと主張しているだけ。交流拡大して一緒にやっていくには、きちんと歴史を検証・整理する必要がある」と話した。
中止要求に対して伊藤知事は「過去の検証はお互いの関係が進むにつれて解決すべきこと。検証だけにとらわれて、今の事業をとめるのは賢いやり方ではない。連携を進めるのは時代の流れであり、中国など生産大国に対する我々の課題。具体的なことは決まっていないが、人的交流を中心にステップ・バイ・ステップで進めていきたい」と話した。
|
>
中止要求に対して伊藤知事は「過去の検証はお互いの関係が進むにつれて解決すべきこと。検証だけにとらわれて、今の事業をとめるのは賢いやり方ではない。
※ あのねぇ、伊藤さん。
両県の、特に琉球弧間の交流事業などは遅きに失したくらいで、これは早く進めるべきだと私たちは主張しているんです。
その前に、鹿児島県と奄美との間にデンと横たわっている深くて暗い過去・現在のミゾ=歴史認識(検証と総括)を早く埋めましょうやぁ。
貴方がたが言う「お互いの関係の深化」を早く深めましょうよ。
今度の宣言で400年の歴史が清算されたと思ったら大変なKYですよ。
※ 貴方がたは今、握手する相手を沖縄(琉球)の方しか向いていないもの。
貴方がたは400年前、琉球や中国に行くため、「ミチノシマ」を侵略し、植民地支配による黒糖地獄を強いてきました。
明治から、大正、昭和、平成となった現在ですらその構造はなにひとつ変わっていません。
今や、空の時代です。
こんどは「カケハシ」とか言うんだったら、道の上や橋の下で暮らし続けてきた(いる)私たちとの合意形成があってしかるべきでしょう?
私たちシマンチュたちの合意無しに頭越しの事業を進めなさんなってこと。
これは公共事業の原則なんだから。
でも、聞く耳はおそらくないんでしょうね。
400年もそうだったんだから。
※それでもそのうち、じっくりお話をして、貴方が言う「関係を深化」させましょうよ。
「議を言う」わけではなく、ごくごく常識的な床屋談議でも・・・ね。
お互い、鹿児島県の特産品である「大島紬」を着用して、「黒豚」や「搗キアゲ(薩摩揚げ)」などを肴に、「唐芋(薩摩イモ)」で造られた「焼酎」でも交わしましょう。
グラスは斉彬公ご発注の特製の「薩摩キりコ」、お盆はきのう仲井間知事から奄美パークでいただいた「琉球漆器」にしてくださいね。
シメは勿論「鶏飯」で、これも最近では鹿児島県の立派な郷土料理に昇格していますから。
奄美からは、「くるじゃた(黒砂糖)」と「なりみす(蘇鉄の味噌)」、「ハブ入りのシマゼー(島酒)」や「マチリ(祭祀)のミキャミキ(三日神酒)」などを持参いたします。
※ 「
何が検証され、検証されていないかはお互い」に飲み食いしながら、ザックバランに点検しましょうやぁ。
そうそう、場所は十島村のガジャ島を指定します。
中世までは、ヤマトとリューキューの境界だった島ですよね。
戦後7年目、奄美より1年早く鹿児島県に復帰したというのに、今や無(棄)人島。
ヒト目を気にせず、心おきなく、「関係を深化」させませんか?
テーマはひとつ、「過去の歴史と成果を踏まえて!」
うがしにっし ゐゐだっかぬ段取りばぁ たんびょうろう!
2,009年11月22日
森本@あまみ庵拝
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
☆ とりあえずの参照記事
きのうの「沖縄・鹿児島交流拡大宣言」。
「与論島クオリア」には引用やコメントなどが多々あります。
2009年に関する一連の流れを追うにはここが一番です。
南日本新聞
読売新聞(鹿児島)
沖縄タイムス
琉球新報
その他、ぬうでんかんでん
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜105
11/21(にちゃ=つち) 旧10/5
(火の兄 午)こ(子)読み
|
☆ これが、宣言文!
沖縄県・鹿児島県交流拡大宣言
沖縄県と鹿児島県の両県は、「琉球弧」と呼ばれる広大な南の海洋に連なる島々につながる「黒潮文化圏」の中になり、古来から海の道による文化の交流があった。
海を通じてアジアや世界に開かれたこの二つの県は、周辺地域の文化を吸収しながら、また、多くの激動にさらされながら、それぞれ独自の個性を築いてきた。
さらに、両県は、政治的・経済的な関係にとどまらず、生活文化の面での深い交流を通じてお互いの個性を磨いてきた。
薩摩による琉球出兵・(侵攻→不読)400年という節目を迎えたこの年、過去の出来事や成果をしっかり踏まえつつ、両県が真の隣人としての関係を新たに構築することが重要である。
このため、今後、両県は、あらゆる分野・世代でより一層の交流を推進し、相互の繁栄を目指して協力することを、ここ奄美の地において宣言し、両県知事が署名する。
2,009年11月21日
沖縄県知事 鹿児島県知事
(直筆サイン) (直筆サイン)
|
※これから、反省会。
そこで今後の対応を検討します。
鹿児島・沖永良部からも抗議に加わり、20人ほどの集まりでした。
「宣言文」の中身は予想以上に、犯罪的な内容。
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜104
11/20(かねぃ=金) 旧10/4
(土の弟 巳)こ(子)読み
|
☆沖縄・鹿児島連携交流事業に思うー福島義光
ワンの友人福島義光さんの論考が今日付けの「南日本新聞」と「琉球新報」の文化欄に掲載されていた。
両方とも、「沖縄・鹿児島連携交流事業に思う」と題されている。
琉球新報のほうは、ファックスが読みづらいので新聞を入手してから掲載します。
南日本新聞(11月20日)
沖縄・鹿児島連携交流事業に思う
大和・琉球 両文化を吸収
奄美は「結節」の拠点に
|
今年は薩摩藩の琉球への侵攻から400年。21日には奄美市笠利の奄美パークで「沖縄・鹿児島連携交流事業」があり、伊藤祐一郎鹿児島県知事と仲井真弘多沖縄県知事が「交流拡大宣言」をする予定と聞く。
会場となる笠利は、琉球王朝と薩摩藩のいずれの支配下でも、奄美統治の地元官庁所在地として政治の中心地をなしていた場所である。従って今回の両知事の行為を、地元目線で表現すれば、「旧支配者同士の旧領地現場での会談」となるのである。
奄美では、薩摩藩による砂糖地獄に象徴される過酷な収奪ばかりが強調されるが、それ以前の琉球治世下でも「無税の理想郷」などではなかった。沖縄の泊港には奄美からの米の収税をつかさどる「泊御殿」があり、奄美での現地役人に集めさせた米を収納する「大島倉」も存在していた。
奄美の民族行事の中に女性祭祀集団であるノロの祭りがある。彼女らノロは「稲作儀礼」である祭祀を執行し、「祭政一致」の琉球王国を支えていたとされる。集落のいくつかには、祭りのための免税地である「ノロ田」があったが、周囲の土地は課税地として王府へ納税し、琉球王朝の絢爛豪華な文化を支えた。海外との中継貿易と中国への朝貢貿易が強調されるあまり、領内での「収奪」を見逃しがちである。
首里城の周りには、王府の「衣食住」の作品を制作する大勢の「専門職人群」が配された。彼らを賄う膨大な費用を確保するには、領内末端の納税者への「稲作の精励」が欠かせなかった。そのための「稲の豊穣」の祈願であり、それこそがまさにノロの政治的役割であった。決して集落民のための「稲の豊穣」を祈願していたわけではなかったと思うのだ。
薩摩ばかりが「収奪者」扱いされるが、奄美の者にとってみれば、どっちもどっちだ。「奄美からの視点」で言えば、その間を通じて島民は「双方への税の供給源」としての位置づけに押しとどめられていただけなのである。
奄美は過去の歴史のように両者が代わる代わる足を乗せる「踏み台」なぞではなく、これから将来にわたっては、双方を「結節」するのに欠かせない最重要地点となり得るといいたい。
なぜなら、奄美には今でも大和文化と琉球文化が混在しており、両文化を吸収、咀嚼してきた懐の深さを持つ。また地図上で奄美を中心に同心円を描くと、東京と同じ距離に東南アジアがあり、中国大陸も多くが含まれることに気づく。これから到来するであろう中国を中心とした「環東シナ海」経済の時代に、必ずや奄美にしか担えない貢献をするものと思う。
ともあれ、会場を提供する奄美への「配慮」が、両者の言辞と「交流拡大宣言」にどう表記・表明されるのか。注目して見届けたいものである。(おわり)
|
※ ここには、「両者の踏み台(税の供給源)」から「両者の結節点」へという、奄美からの視点がある、
両県とも、「両者の結節点としての奄美」と言う点では、「未来志向」での「共通認識」を強調してくるだろうから斬新さはない。
しかし、「両者の踏み台(税の供給源)としての奄美」という歴史的な視点をもちえるだろうか。
あすの「共同宣言」で問われるのはそういうことも含めた両県による「歴史認識」だ。、
沖縄と鹿児島の奄美との向き合い方から判断すれば、過去、現在の奄美に対する対話はないに等しい。
それがないから、両県の経済交流や未来志向のために奄美はまたしても両県の踏み台になるのではないか。
400年の歴史的な記念事業であるのに、奄美は場所を提供させられるだけの脇役(橋や道)でしかないからだ。
まずは、奄美の人間たちが声を上げるべきだ。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
☆ 「中止要求」をめぐる報道(18日と19日の行動から)
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
きのう(11月19日)の奄美大島での記者会見の記事を二つ。
(1)奄美新聞(11月20日)
「交流拡大宣言中止を」
21日の沖・鹿連携事業「大島の会」会見
|
薩摩による琉球侵攻400年の節目として「沖縄・鹿児島連携交流事業」が21日、奄美市笠利町の県奄美パークで開かれ、両県の知事が交流拡大宣言を行う。これに対し、同事業の中止を要求する団体「大島の会」が大島支庁で記者会見を開き、「『400年の間に奄美で何があったのか』歴史的総括がされていないまま、交流宣言を行うのは矛盾している。納得できない」と宣言の中止を求めた。
18日には、中止を要求する市民団体「奄美の会」(仙田隆宣代表)が、同宣言の中止を求めて伊藤知事宛に要請書を提出。県本土で記者会見した。
これを受けて、「奄美からも声をあげ、同事業に対するジレンマの声を広く市民に知ってもらおう」と、同会事務局の森本眞一郎さん、上原義光さん、薗博明の3人=写真左から=が会見に出席、中止要求に賛同する意思を示した。
会見では、「交流を深める」ことには賛成だが、奄美の歴史的な事実を明らかにして、共通認識を図ったうえで行うべきでは」今回の交流事業は市長選挙期間中であり、市民文化祭とも重なっている。セレモニーの周知も不十分で、奄美を無視しているとしか思えない」などと話した。
また、「奄美出身者が声をあげなければ、このまま、奄美の歴史は消えていく」と述べ、交流事業当日は会場でチラシを配布し、同会の考えを来場者に訴えると言う。
県生活・文化課は「今回の交流事業は何か月も前から日程を組んでいるので、中止する予定はない」とした。
同事業は、島津氏の琉球出兵から400年という大きな歴史的節目の年に、両県知事による交流拡大宣言を行い、県政の共通課題について連携した取り組みを進めるとともに、未来に向けた両県の発展的な交流の拡大を図る契機として行われる。
交流拡大宣言書に両知事が署名するほか、シンポジウムや基調講演、郷土芸能披露などが予定されている。(おわり)
|
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(2)南海日日新聞(11月20日)
奄美からも中止求める声
鹿児島・沖縄「交流拡大宣言」
「大島の会」が会見
|
▼21日に奄美市である鹿児島・沖縄連携事業の中で予定されている両県知事による「交流拡大宣言」について、県庁に同宣言の注視を要請した市民グループに賛同する奄美在住者わの団体が19日、大島支庁記者クラブで会見を開いた。「薩摩藩の琉球、奄美侵攻から400年の節目の年に、侵略の歴史の検証と総括をしないで、一番虐げられてきた奄美で宣言が行われることに憤りを感じる」と県政を批判した。
会見を開いたのは「中止を要求する大島の会」。薩摩の奄美侵攻が始まったとされる旧暦3月7日に毎年、奄美市笠利町の戦跡で集いを開いている「三七(みな)の会」が母体。森本眞一郎さん、薗博明さん、上原義光さんらが出席した。
会見で森本さんらは「薩摩軍の琉球侵攻400年を記念して、東京や沖縄で開かれた行政主催のシンポジウムなどは研究者による歴史検証にとどまっている。侵略で最も痛手を被った奄美群島の住民の感情を黙殺している」と指摘。
「こういう大事業をなぜ直前になるまで広報しないのか。奄美を無視したやり方だ」「今年は400年前の出来事を県民全体に知らせることができた元年。節目のイベントで終わらせてはいけない。歴史上の共通認識を図るため、地元から声を出さなければ」などと述べた。
同会は21日、イベント会場の奄美市笠利町の県奄美パークでチラシを配布し、来場者への周知を呼びかける。
同宣言をめぐっては「交流拡大宣言の中止要求する奄美の会」(仙田隆宣代表)が18日、伊藤祐一郎知事に対して中止を求める要請書を提出。奄美5島住民の会や鹿児島、沖縄、関東の出身者の会が賛同している。(おわり)
|
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ (3)2009/11/19(木)、南海日日新聞より。
「交流拡大宣言」中止を
「侵略の歴史、総括されず」
市民グループ、知事に要請書 |
【鹿児島総局】21日に奄美市笠利町の県奄美パークで行われる沖縄・鹿児島連携交流事業の中で予定されている伊藤祐一郎知事と仲井真弘多沖縄県知事による「交流拡大宣言」について、地元奄美の関係者や全国の奄美出身者らで結成した市民グループは18日、伊藤知事に対して、「交流拡大宣言」の中止を求める要請書を提出した。市民グループは理由について「島津氏の琉球・奄美侵攻(1609年)から400年の今年、薩摩の歴史の検証・総括がなされていない中、奄美での宣言に深い違和感を覚える」としている。
県の県民生活局生活・文化カを通じて要請書を提出したのは、「交流拡大宣言」の中止を要求する奄美の会(仙田隆宣代表)。奄美5島住民の会や鹿児島、沖縄、関東の出身者の会もの賛同も得たという。
山田代表(62)ら鹿児島在住の賛同者6人が同日、県庁で記者会見した。仙田代表は「件が11月1日に鹿児島市で主催した『鹿児島・沖縄歴史・交流シンポジウム』の県民への周知が不十分。21日の連携交流事業の進め方もオープンでない」と指摘し、島津氏の琉球・奄美侵攻400年に関連した事業での県の対応を批判した。
その上で、「侵略以降400年の奄美の歴史についての検証が県としてなされないままで、奄美の地で交流拡大宣言が行われるのは許せない」と述べた。
他の出席者も「宣言そのものに反対しているわけではない。400年という過去の歴史を踏まえていない交流宣言は手続きがおかしい」「県は郷土教育を通じて奄美の歴史を広くしらしめるべき責任を放置している」と話し、奄美の苦難の歴史に対する認識を県が示すよう求めた。(おわり)
|
|
▼ (4)南日本新聞の記事は
ここ。
(5)読売新聞(鹿児島)の記事は
ここ。
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜103
11/18(むじぃ=水) 旧10/2
(火の弟 卯)こ(子)読み
|
☆ いいかげんにもほどがある!
今日、急きょ、中止要求の要請書を鹿児島県知事に提出した。
(編集が下手で見にくいのをお許しください。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2009年11月18日
鹿児島県
伊藤祐一郎知事 様
「沖縄・鹿児島連携交流事業」における
「交流拡大宣言」の中止を要求する要請書
「交流拡大宣言」の中止を要求する奄美の会
代表 仙田隆宣
鹿児島市坂元町38−3
他賛同団体
中止を要求する喜界島の会
中止を要求する大島の会
中止を要求する徳之島の会
中止を要求する沖永良部島の会
中止を要求する与論島の会
中止を要求する鹿児島住民の会
中止を要求する沖縄住民の会
中止を要求する関西住民の会
中止を要求する関東住民の会
1【項目】
私たちは、「沖縄・鹿児島連携交流事業」における「交流拡大宣言」の中止を断固として要求します。
2【理由】
11月21日、鹿児島県知事と沖縄県知事による「沖縄・鹿児島連携交流事業」が行われると聞いています。
しかし、島津軍による武力侵略から400年の今年、奄美の地でそれがなされることには深い違和感を覚えざるをえません。
1609年の琉球侵略に伴い、奄美の島々は琉球国の領土から転じて、薩摩藩の隠された直轄地となりました。明治期に鹿児島県に編入されてからも米軍政下の8年間を除いて現在に至るまで、この奄美が本土統治下に置かれ、差別と収奪の対象にされていたと見ることができます。
私たちは、加害者と被害者の立場の違いによって歴史の評価は大きく異なることを学んできました。
為政者側からの歴史は、徳之島犬田布(1864
年)において無実の罪で拷問された「為盛」救出が「騒動」であり、母間(1816年)において無実の罪で投獄された「喜久山」救出と薩摩藩直訴もまた「騒動」でしかなかったのです。
斉彬の近代化政策とは奄美の人々を酷使し、餓死させた政策であり、これを推進した行政改革者・調所広郷の改革とは大阪商人からの500万両の借金踏み倒しと偽金作り、密貿易、奄美諸島の民衆を奴隷と化した黒糖収奪でありました。今の時代なら極刑であります。しかし、斉彬と調所は薩摩のヒーローとして鹿児島の歴史学者は賞賛しています。
薩摩の奄美・琉球侵略を「不幸な歴史」と精算し、過去の歴史を隠蔽し、蓋をすること、謝罪すべきことを「交流」と称し、奄美を愚弄することを奄美の民衆は許すことはできません。
今、やっと奄美の人々が言葉を発する時代(とき)が来たと、私たちは考えてきました。そこへまたもや亡霊のように薩摩と琉球が立ちはだかるとしたら、我々の先祖は地の底から這い上がり、きっとこう叫ぶでありましょう。
「武器を持たぬ豊かな恵みの島を襲った島津軍、黒糖地獄、あの苦しみを忘れろと言うのか!餓死した同胞は今も山中に、海岸に骸となってさまよっているのだ!今もなお薩摩代官のごとく島ん人を見下す輩がいるのがみえないのか!哀しいことだ・・・」と。
薩摩の奄美・沖縄侵略を契機に奄美の人々のアイデンティティは末梢され、「薩摩であって薩摩でない、琉球でなくて琉球の内」として扱われてきました。
明治の世、黒糖は自由売買の世になりましたが、鹿児島商人(大島商社等)は専売によって暴利を貪ってきました。そして、自由売買嘆願の一行は投獄され、一部の人々は西南戦争へ従軍。疲弊した奄美は、県議会によって「遥かに遠い絶海の離島で文化も違う」と異端視して切り離され、屈辱的な差別政策である「大島独立経済」を強いられてきました。さらに敗戦後、奄美の島々は米軍統治となり、1953(昭和28)年12月25日、やっと我々は薩摩侵略以来の自由を取り戻したかに見えました。しかし、これも鹿児島の官僚政治で、奄美群島振興開発特別措置法という鹿児島県と本土企業の利権を誘導するための事業と化し、奄美の貴重な自然を食い物にするだけの形を変えた植民地政策となっています。こうしたアメとムチの時代がまたもや奄美を沈黙させているのです。
薩摩と奄美は永遠に「侵略、略奪」する側と「奪われ、生殺与奪の牛馬のごとき」関係でしかないのでしょうか!
しかし、奄美の人々は島人(シマンチュ)としての誇りを捨てることはありませんでした。私たちは、長い苦難の時代にあってもシマの生活と文化を守り、誇りを失わずに歩みを止めなかった先祖を尊敬し続けてきました。
それ故、私たちには、絶滅寸前であるといわれている奄美の島々のシマグチやシマウタなどを始め、文化や歴史、自然まるごと奄美のアイデンティティとして継承する義務と責任があります。今、薩摩に同化されることはそれらを失うことになります。
私たちと志を同じくする「三七(みな)の会」は、こうした意志を表明するため、本年9月、鹿児島県議会に「郷土教育に関する陳情書」を提出し、鹿児島県と奄美に係わる歴史教育の必要性を促しましたが、継続審議となりました。
奄美侵略400年を機に、鹿児島県でも奄美に対する歴史の検証と総括、これからの歴史教育への取り組みを含め、真摯な取り組みが開始されるものと期待していました。
鹿児島県民の中で、奄美と薩摩の過去の歴史を知るものが、果たして何人いるでしょうか。鹿児島県知事は、その歴史を語ることができるでしょうか。
鹿児島県及び鹿児島県知事は、2009年の今回の計画において大きな過ちを重ねようとしています。それは、第一に、鹿児島県民に奄美の歴史を広く知らしめる責にありながら放置していること、第二に、その歴史と現実を「沖縄・鹿児島連携交流事業」という美名で隠蔽しようとしていること、そして、このイベントを今日、現在においてすら奄美の住民に告知せず、開催しようとすることなどであります。
奄美と鹿児島県の歴史を語らず、逆に奄美の住民感情を黙殺するに等しい計画に対して、私たちは、400年前の1609年、島津藩の奄美侵略によって数百名余もの命が奪われた先祖の無念を思うとき、「無神経にも程がある!」「恥知らず!」と耳障りになるような言葉を投げかけるほかないのです。しかも、こうした歴史に目を閉ざし、それらの歴史的事実がさも無かったかのようにして、この計画を奄美の地で行うなど、言語道断であり、これは時期尚早という以前の問題であります。なぜなら、今日に至るまで奄美と鹿児島県との400年間の歴史認識(検証と総括)の問題はなに一つ解決されていないからであります。
このようなことから、私たちは「沖縄・鹿児島連携交流事業」における「交流拡大宣言」の中止を断固として要求します。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
このことで、鹿児島県当局へ抗議のメールを送っていただけたらありがたいです。
「鹿児島県、総務部、県民生活局、生活文化課」
http://www.pref.kagoshima.jp/soshiki/soumu/seikatsu/seibun.html
この中に、アドレスがあります。
seibunka@pref.kagoshima.lg.jp
要領を得ませんが、コピー&ペーストして送付してください。
よろしくお願いいたします。
森本@あまみ庵拝
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜102
11/15(てぃだ=日) 旧9/29
(木の兄 子)こ(子)読み
|
☆ いよいよ炎上?1609!
※ きのう(11/14)は薩摩の侵略400年をめぐるあれこれ、4件があった。
(1) 南海日日新聞(11/15)
奄美で交流拡大宣言締結へ
21日、沖縄県知事と会談
伊藤知事
|
|
【鹿児島総局】伊藤祐一郎県知事は13日の定例記者会議で、21日に奄美市笠利町の県奄美パークで沖縄県の仲井間弘多知事と直接会談し、「交流拡大宣言」締結をする考えを明らかにした。「子どもたちの交流促進など未来へ向けた新たな協調関係を話し合う機会にしたい」と述べた。 |
|
※ しかし、その内容については週明けの11/16(月)に県当局からの発表待ちだそうだ。
県民にその内容が新聞で報道され、告知されるのは、11/17(火)の朝である。
本当は「沖縄鹿児島交流拡大2009記念式典」(11/21・土)なんだが、当日のなんと4日前の発表ということになる。
奄美の人間でこの式典の内容を知っているのは、関係者だけだ。
この式典は、両県(薩琉)の1,609年から400年間の歴史の総括、エポックになる。
それが、このように両県だけによって抜き打ち的に「交流拡大宣言」という美名で幕引きされようとしている。
それも、奄美の地で、奄美の住民たちのあずかり知らぬところで、だ。
「不幸な歴史があったことは事実」という文言がはいるのだろう。
しかし、その浅からぬ事実に対して鹿児島県は奄美の住民たちとどういう風に向き合い、折り合いをつけるのだろうか?
県当局が主催した400年をめぐるシンポジウム関係は、鹿児島市で11月1日に密室で形式的に行われただけである。
400年たっても奄美のシマンチュは泣き寝入り?
あいもかわらぬ、薩琉の橋渡しとしての道の島?
しかし、その橋や道自体が利権の対称そのものであったし、今もそうだ。
今回の「薩琉の交流拡大」という儀式も、奄美をさらに利用し続けるための式典である。
「未来志向」でいくというのなら、「奄薩」、「奄琉」間の400年の総括が第一。
第二に、総括に基づいたアマシンの交付金化など具体的な政策論議が前提だ。
立ち位置は奄美、奄美が主役。
そうでない、「調印式」や「共同声明」などはごめんこうむりたい。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
PS:きょう(5/16)現在、鹿児島県当局からの「記念式典」に関する発表はない。
開催まで、あと5日。
なにを考えてんだか、密室すぎるし、姑息すぎるし、馬鹿にしすぎ。
(2) 奄美新聞(11/15)
喜界町で薩摩侵攻400年シンポ
「暮らしから歴史を」
「海域社会」で可能性 |
▼ 薩摩侵攻400年シンポジウム(喜界島郷土研究開会主催・上原慶三郎会長)が14日、喜界町役場コミュニティーホールで開かれ、民俗研究家の高橋一郎氏の基調講演の後、地元の郷土研究会員ら7人がそれぞれのテーマに沿った発表を行った。
▼ 高橋氏は「海域社会としての歴史像を描き出す試み」と題し、「沖縄では、同様のシンポジウムが開かれ『薩摩の侵略時代は暗黒時代ではない』という捉え方が出てきた。外部から歴史を見て嘆くのではなく、私たちの暮らしの中から歴史を見つめよう」と「海域社会」いう視角で見ると、もっと可能性があったと語った。。
「1697年に城久(ぐすく)八幡神社が、京都からもたらされた。住吉神社なども、この時代に建立されており、さまざまな方法で、それぞれのシマに文化を持ち込んでいることがうかがえる。歴史はあおってはだめで、実感できる歴史を探ることで見えてくるものがある」と話した。
|
※
?!?!?!
沖縄で、
『薩摩の侵略時代は暗黒時代ではない』という捉え方が出てきたのは、沖縄の研究者たち(だけ)の見解ではないか。
それも、琉球王府の存続のし方を巡っての議論の中でであり、琉球国(沖縄県)内の民衆レベルでの史観とはならないとワンは思う。
さらに、奄美は琉球国とは実質的に分断され、薩摩の直轄支配となったわけだから、琉球国をめぐる沖縄の歴史家の史観は少なくとも奄美にはあてはまらない。
「シマの文化」についても、ヤマトの神社(カミ)を誰がなんのためにシマにもちこんだのか。
その主語は「薩摩」であって「シマ」ではない。
奄美のシマ島の土着神を覆いかぶせるためである。
平家や為朝伝説などのように。
「歴史はあおってはだめ」」とはどういうことか。
「暮らしの中から実感できる歴史」とは何か。
そのことによって、どんな世界の
可能性が
見えてくるのか。
今なお、奄美は鹿児島県の行政統治下にある。
そのために、ネガティブな日常を実感しながら暮らし続けている。
それこそが、それぞれの現実(民俗)と思いこそが歴史そのものではないか。
(3)
東京でも、
「奄美と沖縄をつなぐ」イベントがきのう開催された。
内容については、喜山荘一さんの報告を楽しみにしているところ。
(4)
きのうは、大島の名瀬でもあった。
わずか、20名のミニ講座だが座談会形式でよかった。
奄美市生涯学習講座「奄美復帰と薩摩侵攻400年」
於:名瀬中央公民館金久分館(14時〜16時半)
発表者は、楠田豊春、奥山恒満のご長老とワンの3人。
ワンは、「自分にとっての1609年」と「沖縄鹿児島交流拡大宣言2009(イン アマミ)」をテーマにした。
参加者20名全員のホンネが聞けたのがベストだった。
「三七の会」への一連の動きに対する批判も奄美婦人部OBの方から出された。
でも、共通項は、「正確な奄美の歴史をシマンチュが知るためには郷土教育が必要」ということが確認できた。
マスコミは奄美TVだけ。
静かな講座だったが、来年以降も1609年問題を継続していくことの灯台の明かりが見えた。
☆ 12年前の送別会、
元ちとせと神谷さん
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜101
11/12(き=木) 旧9/26
(火の弟 酉)こ(子)読み
|
※ 昨夕、珍しいグループが来店した。
どうも見覚えのあるお方から、名刺をいただいた。
『
生物と無生物の間』の著者だ。
ベストセラー(65万部)の売れっ子作家(分子生物学者)。
この冬、読んでいたので、サインをしていただいた。
話が弾んだ。
ワンは、シマ(の世)を生き物としてとらえている。
そのために、ミクロ(細胞や分子世界)とマクロ(地球や宇宙)からシマをとらえたい。
現在も、その過程にある。
少しは見えてきたが、キメの一行がでてこない。
もうお一人。
レコード制作会社
「オーガスタ」(年商25億円/2006年)の社長さんだ。
忌野清志郎との交流が深かった元ミュージシャンだけにかっこいい(生き方も)。
所属する元ちとせのレコーディングで来島したらしい。
あまみ庵にはお二人とも数回いらしているとのこと。
東京ではあまみ庵のようなアナログな古本屋が少なくなったので、来るのを楽しみにしているとのオコトバ。
「ありがたいのですが、ここもほとんどホスピス状態で・・・」と正直に答えた。
「そうなんだ・・・売り上げは?家賃は?・・・・は?」と真剣にノってくれた。
※これから、
「アシビ」で元ちとせの臨時ライブがあるという。
突然決めたのだが、
「あまみFMディー!ウエィブ」で案内したら、一日でソールドアウトになったらしい。
「
フモトさんにお願いしたらなんとかなるかも」
閉店後、ためしにアシビへ。
麓クンが入り口にいてフリーパス!(^ム^)
ステージでは、元ちとせ&
サーガリの新元クンで盛り上がっていた。
やがて、山崎まさよし&岡本定義&元ちとせの豪華ステージが。
マタニティウエアのちとせの風がアシビに吹きまくった。
シマンチュたちの立ち見の熱気が共鳴した。
※ 9時半頃に終わり、打ち上げにも誘われた。
1997年3月、『奄美もっと知りたい』の著者、神谷祐司さん(朝日新聞記者)の送別会のことを思い出した。
水間クンやヒロゾーたちあまみ庵のスタッフが企画していた。
送別会に呼んで欲しいウタシャを神谷さんにたずねたら、「元ちとせちゃん!」だった。
当時の元ちとせは、卒業を控えた高校3年生。
1992年、同じ瀬戸内町出身の中野律紀センパイが日本民謡大賞(奄美で3人目)を獲得して、音楽界で活躍していた。
1994年、元ちとせは15歳で奄美民謡大賞新人賞を受賞。
1996年、17歳で奄美民謡大賞を受賞した。
リッキのお次はちとせの番だ、シマのみんなが期待していた。
でも、全国大会の九州予選で落選してしまい、彼女は失意のどん底にあった。
音楽の世界をあきらめ、その春、美容師修行のため名古屋に行くところだった。
じゃぁ、合同の送別会を!ということに。
ちとせは、サンシンとギターを携えて小さな飲み屋にやってきた。
シマウタのあと、シンディーローパやキャロルキングを弾き語りして、参加者たちは(ワンも)仰天した。
神谷さんご夫婦(と参加者)には想いでぶかい送別会となった。
もう、12年前のハナシだ。
それから数年後、ちとせはオーガスタの森川社長の名刺を思い出した。
電話して、音楽界にデビューする。
デビューアルバムには、あの時歌ったシンディーローパやキャロルキングなどのカバーが収められていた。
※ そんなことを想い出しながら、ちとせが沖縄のハンサムなご主人と語らっているのを眺めていた。
二人目のシマの宝が胎内で育っている。
ご主人は今、ちとせの生地、瀬戸内町の嘉徳でミセづくりをしているとか。
こうやって島々を結ぶ新しい「しまの世」が生まれ、育っていく。
嬉しい光景を見届けてアシビを出た。。
2009年11月11日、想いもかけぬすばらしい「しまの夜」をいただいた。
いやぁ、おぼこりありょうたぁ!関係者のみなさんがた。
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜100
11/10(ぅまち=火) 旧9/24
(土の弟 羊)こ(子)読み
|
※ この「鎮魂譜」、今日で100回目になった。
昨年の6月28日、ガンで旅たった従兄の恭三兄を偲んで第1回とした。
あれから約500日、平均して5日ごとの更新ということか。
書くのはメンドイが、備忘録、というより遺書のようなものだ。
「しまぬゆ2号」の代わりに、ここで憂さ晴らしをしているのかも。
「しまぬゆ」とはなにか?
一行が・・・
(^ム^)
★ 薩琉友好調印、共同声明文を入手
11/7(鎮魂譜98)の
★不幸な事実を共有!?で引用した、「共同声明」を入手した。
(謝、南海日日新聞@鹿児島)
思いのほか、短い。以下全文。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
鹿児島県・沖縄県両議会議長共同声明
▼ 本年(2009年)は、1,609年、薩摩藩が琉球王国に侵攻してから400年の節目に当たる。
侵攻により不幸な歴史があったことは否定できない事実である。しかし、今日、鹿児島県と沖縄県は、海を隔てた隣接県として、また九州の一員として相互に種々交流を深め、共に繁栄を築いてきた。
両県議会は、この歴史的節目の年を迎えるに当たり、先人たちが築いてきた友好関係を今後さらに発展させるとともに、とりわけ積極的な取り組みが期待される奄美・琉球諸島の世界自然遺産登録の実現及び離島の振興等共通の課題に関し、連携して調査、政策提言を行うなど、両県の振興発展のために尽力することをここ鹿児島市の地において宣言するものである。
2009年11月4日
鹿児島県議会議長 金子万寿夫 副議長 中村真
沖縄県議会議長 高嶺善伸 副議長 玉城義和 (おわり)
(各人署名) |
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※新聞で読むのと、原文(FAXだけど)に接して確認するのとでは、同じ文章でもなんか重みが違う。
県際交流の「宣言」をする「共同声明」という公文書だから、文言は公式なものだ。
「薩摩藩」「琉球王国」「侵攻」「不幸な歴史」「否定できない事実」「隣接県」「九州の一員」「奄美・琉球諸島」・・・
お役所文句で、味も素っ気もないが、両県が合意する具体的な政策は見える。
二つ。
@
奄美・琉球諸島の世界自然遺産登録の実現
A離島の振興
等共通の課題に関し、連携して調査、政策提言を行う」
これは、400年前に処分された(した)、南島/薩琉諸島/南西諸島/琉球弧・・・につらなる「離島」間の資源を連携して活用し、「
両県の振興発展のために尽力」しようとの政策合意だ。
しかしながら、そこに、島々の400年の歴史も将来ビジョンも見えてはこない。
アマシンやオキシンという開発のための資金をこれからは連携して投入していこうという、延長路線があるだけだ。
世界自然遺産登録などでいい目をするのは、開発主体の政官業であり、島々は環境負荷で疲弊してしまうだろう(先例地のように)。
亜熱帯の離島にふさわしい、農林漁業や製造業などの振興策をこそ、「連携して調査、政策提言を行」うべきだろう。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※では、この「両県の共同声明」を沖縄側はどのようにとらえているのだろうか。
幸いにも、琉球新報の社説(11月6日付)が、
「薩琉友好調印/未来志向で交流深めたい」として論説している。
基調は共同声明を肯定的にとらえている、が鹿児島にはない沖縄らしい視点がある。
「琉球諸島の中で、沖縄と奄美の歴史的、文化的な側面から一体化か別個かという論議も興味深い」
こういう論議が、最近、沖縄のイベントなどであったということだろう。
「奄美は本来、沖縄(のモノ)、だから早く帰るべき!」(ショーキチ・キナ)
このような愚論は、まさか続いていないだろうが・・・
今年を契機として、これからは、「一体化か別個かという論議も」深めていければいい。
本来シマ島はそれぞれ別個につらなる島々(しまぬゆ)が多様につながってきた。
ヒトの世だけが、一体化(おクニ)などを考えるからおかしくなるのだ。
自然は、もともと、ひとつで、それぞれが相似の統一体らしい(
フラクタル)。
山やぁ水おかげ、水やぁ山おかげ
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜99
11/8(てぃだ=日) 旧9/22
(火の弟 巳)こ(子)読み
|
★ 今も続くよ、とほほの現実
黒糖が明治維新をもたらす
正しい歴史検証、周知が必要
奄美市生涯学習講座 |
南海日日新聞(11/8)
※ 6/17(鎮魂譜57)で下の対談を評したことがある。
南海日日新聞(6月14日付)の「薩摩侵攻400年企画 大江修造VS調所一郎」
「対談 調所家と田畑家、その功罪と展望」を読む。と題して。
調所一郎さんとは10月3日の鹿児島の集会で会ったが、これといって話はしなかった。
するとやばそうだったから、だが。
対談者の一人、大江修造さんがきのうやったという講演の記事を紹介する。
▼ 奄美市生涯学習講座「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ」の第10回講座が7日、名瀬公民館金久分館であった。奄美2世で東京理科大学の大江修造教授は講演で、薩摩に収奪された黒糖が藩財政を潤し、明治維新をもたらしたーと指摘、「学校教科書に奄美の砂糖が貢献したと書くべき」と訴えた。
大江教授は奄美の衣食住について大島紬や長寿食、「浦の橋立」の土木技術などを挙げ、「西郷隆盛は手紙で『愚民』と書いているが生活レベルは高く、本土に見劣りしない才能を発揮していた」と主張した。
1609年の侵攻後、薩摩藩は@通貨の禁止A稲作の禁止B造船の禁止C奴隷制度ーの砂糖増産政策で徹底的な政策を敷いた。宝暦の治水事業や薩英戦争のあらましを説明した上で「もし薩摩が負けていたら中国のように日本も植民地化されていたかもしれない」と推察、その後、明治維新へと続く薩摩藩の活躍には黒糖で得た利益が大きく貢献したとした。
講演は座談会形式で行われた。受講者からは「歴史の中で奄美が果たした役割は大和の人だけではなく、島の人も知らない。地元でこそ言わなければならない」など正しい歴史検証や周知の必要性を求める声が相次いだ。(おわり)
|
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※奄美では由緒正しい(?)田畑家の子孫である大江さん。
彼が評する「
明治維新に奄美の砂糖が貢献」や
「浦の橋立の土木技術」のことなどは、ワンには一歩引いて聞かざるをえない。
なぜなら、田畑家をはじめ、彼ら島の支配者たちは奄美のために、黒糖、大島紬、浦の橋立などの技術を開発してきたのではないからだ。大島紬は献上品。
浦の橋立は、湿地を干拓して砂糖畑を拡大するため。
彼らは、自分たちユカリッチュ一族のため、薩摩藩の砂糖増産政策の先頭に立って過酷な収奪に加担してきた当事者たちだからだ。
いわば、彼らの祖先たちが奄美の農民たちを奴隷化してきた結果が、薩摩藩の財源になったというのが歴史の本質なんだから。
「奄美が果たした役割は大和の人だけではなく、島の人も知らない。」
と同時に、その内実も知られていない。
2009年、はじめてそれが一般的に知られ始めようとている段階ではなかろうか。
おひざもとの奄美ですらそんな段階での状況で、400年をきっかけとして鹿児島と沖縄が交流宣言をする。
両県は、四百年の歴史をどうやって検証し、総括したというのだろうか。
奄美の存在はどのような歴史認識の下に処分されるのだろうか、あれから400年。
※ 「
もし薩摩が負けていたら中国のように日本も植民地化されていたかもしれない」
これは、支配者である薩摩・鹿児島側の論理である。
徳之島のイベントでも実行委員長の高岡徳之島町長が同様な挨拶をしていた。
彼は、
「もし、薩摩が奄美にこなかったら、奄美は中国の領土になっていたかもしれない」と語っていたが。
とほほ・・・の言説が旧支配者たちの子孫の口を借りて、亡霊のように今も支配している奄美の現実が生きている。
やはり、いつも、今が、スタートだ。
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜98
11/7(にちゃ=土) 旧9/21
(火の兄 辰)こ(子)読み
|
★不幸な事実を共有!?
侵攻400年、転じて連携へ
鹿児島、沖縄県議会が共同声明 |
※これは、11/6の南海日日新聞の見出し。
前回、鎮魂譜97の後半でリンクした南日本新聞(11/4)の奄美版だ。
記事の全文を掲載するが、声明文も入手したら紹介したい。
ーーーーーーーーーーーーーー
【鹿児島総局】 鹿児島県議会の金子万寿夫議長と沖縄県議会の高嶺善伸議長は4日、今年が1,609年の薩摩藩による琉球侵攻から400年の節目に当たったのをきっかけに「不幸な歴史」を乗り越え、奄美・沖縄諸島の世界自然遺産登録の実現や離島振興など連携を図っていこうと共同声明に調印した。
共同声明では、「侵攻により不幸な歴史があったことは否定できない事実」とする一方、「海を隔てた隣接県として、九州の一員として相互交流を深め、共に反映を築いてきた」ともしている。その上で「積極的な取り組みが期待される奄美・琉球諸島の世界自然遺産登録の実現、離島の振興など共通の課題に関し連携して調査、政策提言を行い、両県の振興発展のために尽力する」と宣言している。
鹿児島市内のホテルであった調印式では、金子議長と高嶺議長が共同声明書に調印した後、双方の副議長も交えて固く握手を交わした。
両県は離島の航路、航空路問題やサトウキビなどの農業面でも共通の課題を抱え、交流がある。調印後の記者会見で金子議長は「県民全体へ交流が深まることは有意義であり、県議会同士がけん引役となりたい」とあいさつ。声明を提案した高嶺議長は、琉球侵攻の歴史は「事実は(沖縄)県民が共有している」と述べる一方、「海を越えて国道58号で結ばれている両県の将来展望を語ることも大事。協力していきたい」と強調した。
今月21日には、奄美市笠利町の県奄美パークで開かれるイベントで伊藤祐一郎知事と沖縄県の仲井間弘多知事が「交流拡大宣言」に調印する計画も進んでいる。(おわり)
|
※ リードの「奄美・沖縄諸島の世界自然遺産登録の実現」が、本文では「奄美・琉球諸島」とあって統一性がない。
「奄美・沖縄」、「奄美・琉球」を引き続き分断統治していこうという鹿児島県の意思か。
なお、この日の南海日日新聞のトップ記事は、「道州制のあり方協議/九州・沖縄未来創造会議/鹿児島市」。
これによると、同日、鹿児島市内の同じホテルで開催されていて、金子議長は全国議長会会長、高嶺議長は九州議長会会長だ。
沖縄県は、「九州・沖縄未来創造会議」と「九州議長会」に両属していることになる。
ところが、共同声明文では「両県は九州の一員」という表現だ。
ここでは、「琉球国」が「沖縄県」になる以前、つまり「南島」の「非ヤマト時代」の歴史認識も抹消している。
☆ また、次の声明書の文言を我々はどう解釈したらいいのだろうか。
「侵攻により不幸な歴史があったことは事実」
「琉球侵攻の歴史は『事実は(沖縄)県民が共有している』」
どんな事実を沖縄(と鹿児島)の県民たちは共有しているのだろうか?
具体的に一つだけあげると、薩摩藩政・琉球王府時代から続いている両者による「奄美処分」。
この間の「事実」(史実・内実)がどれほどのレベルで県民たちに「共有」されているのだろうか?
処分された当の奄美の住民たちですら、このことは生半可な歴史しか知らされていない鹿児島県の歴史教育があるのに、だ。
また、この声明は「沖縄側から提案した」らしいだが、疑わしい。
沖縄は県議会や所定の手続き(議決)などをちゃんと踏んだということか?
※ 今月21日にあるらしい両県知事による「交流拡大宣言」なども、両議会の議決を経ずに、知事たちの専決処分事項ということか?
知事たちは県民の総意をどこでどう汲み上げたのだろうか。
気になること(記述)ばかりだ。
たとえば、2009年の今年、奄美の住民の意見を聞くような鹿児島県主催のイベントは奄美においては一度もなかった。
原口泉が徳之島と沖永良部島のイベントで勝手なことを吐いて帰っただけだ。
新聞社にこの宣言イベントの内容についてたずねた。
「県大島支庁長によると、内容が固まるまではまだ発表できない」とのこと。
歴史的な大イベント開催日まであと2週間、で、この状況だ。
いったい、なにを画策しているのだろうか。
奄美の住民に知られたら困るのだろうか?
どこまでも奄美をバカ(処分対象)にしている、姑息な陰謀(犯罪)が、またもやだ。
@県民への歴史教育、放置の罪。
A奄美での「交流宣言」で、相互の歴史を隠蔽しようとするという罪。
この件で、知事を提訴したら、奄美と鹿児島県400年間の歴史認識を問う議論が公的にできはしまいか。
その過程で、奄美と沖縄との歴史認識もあぶりだされてこないだろうか。
残念ながら、今のワンにはその力量はないのだが、なんとかいい方法はないものだろうか。
宣言イベントの翌日(11/22)、将来を占う奄美市長選を抱えながら、悶々としている。
これが、「歴史」というものの「現在」か。
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜97
11/5(き=木) 旧9/19
(木の兄 寅)こ(子)読み
|
★ 奄美に期待?
両県発展!400年の共同声明調印式
奄美に期待、沖縄と交流
歴史シンポ鹿児島市で
園田氏ら発言、中さんライブも
|
※ これは、なにかというと、「鹿児島・沖縄 歴史・交流促進シンポジウム」(11/1)。
11月2日付けの南海日日新聞の1面トップの見出しコピーである。
奄美になにを具体的に期待するというのだろうか、鹿児島と沖縄は。
伊藤祐一郎県知事は「島津氏の琉球出兵400年を機に、未来に向けた鹿児島、沖縄両県の発展的な交流拡大を念願している」と挨拶した。
「県境を越えた経済、文化、スポーツ交流を積極的に推進する必要性を確認しあったほか、中間に位置する奄美が果たすべき役割を期待する指摘が相次いだ。」
「そのほか、琉球諸島の世界自然遺産登録へ向けた連携強化や、相乗効果を生み出す共同プロッジェクトの取り組み、大学間の共同研究推進、沖縄から奄美への回遊観光ルートの設定などを求める意見があった。」
|
※ 文脈だけから類推すると、この400年間に起こった奄美を含めた相互の事実関係の検証や確認などはさておき、今後も奄美をまきこみながら、両県の経済・文化の交流を拡大していくためのいい機会にしよう!というプロパガンダでしかない。
基調講演をした、鹿児島の紙屋敦之教授は、琉球出兵の背景を述べるだけ。上原兼良特認教授は、琉球王朝内部の内情を分析するだけの論調にあいも変わらずとどまっている。
つまり、手前らの家庭の事情にしか関心はむいていない。
この400年間そのはざまにあって、物心ともに塗炭の苦しみをあじわってきた(いる)我々奄美諸島に対する文言や総括がなにもない。
あいもかわらず、奄美諸島の自然や文化を経済的に収奪していこうという、あいさつや意見ばかりではないか。
いったい、だれのなんのためのシンポなんだ。
※ その矢先、またまた、やれやれの記事が飛び込んできた。
両県の議長が共同声明書に調印したという記事だ。
いつもの「与論島クオリア」(喜山さん)からの転用です。
琉球侵攻400年で共同声明 鹿児島・沖縄両県議会、
「両県発展のため尽力」 (南日本新聞11/4)
この中の鹿児島県議会議長・金子万寿夫は奄美選出。
順番の当たり年だが、今年の全国県議会議長会の会長という要職にある御仁だ。
奄美からの県議代表が調印しているのだから、奄美は文句はないだろうというのか。
でも、この記事は地元紙には未掲載だ。
おそらく、一部の関係(当事)者以外の奄美(鹿児島・沖縄)の住民たちには寝耳に水だ。
2009年、皆既日食に浮かれていた奄美の陰で、このような調印式や共同声明の準備が両者間では着々と進められていた。
それも、奄美からの代表(?)が調印して、という演出で。
共同幻想としての歴史はこうやって作られていくのだ、と実感させられている。
でも、自分の歴史だけは、自分が主人公だ。
それぞれの歴史は、我々の現在の意思と共に未来からやってくる、と信じたい。
さて、きゃっしっすろかい?
たとえば、こんな事業などを優先して奄美と沖縄は、相互に実りのある交流を深めるべきだろう、今後は。
結びの海へ、ヒト、モノ、コトのつながりを!
↓(これも与論島クオリアより)
「奄美農産物、那覇経由で本土出荷」
137億60歳の記憶と記録
鎮魂譜96
10/30(かねぃ=金) 旧9/13
(土の兄 申)こ(子)読み
|
★ お色直しと衣替え
※ 昨夜、久々に中華料理をごちそうになった。
奄美大島の名瀬には飲食店がごまんとある。
でも、本格的なエスニック料理の専門店はほとんどない。
和食(蕎麦や懐石など)を始め、朝鮮その他のアジアや西洋料理のミセがない、にひとしい。
あったところで、たいしたことではない、のだが。
その土地で喰い、遊ぶことがエスニックの本質だから。
奄美にディズニーランドはいらない。
動物園、植物園、水族館・・・なども。
シマのありのまま、山川草木とくらしのたたずまい、それだけで十二分。
まぁ、グルメなどとは極北の食人生だった。
年中、島メニューがある食堂や居酒屋がよいの30年。
食えれば上等!とアジ気ない人生だったが、なぜかふときづいたのだ。
シマの行事(祭事習俗・冠婚葬祭))ではない折り目が人生にはある。
誕生日、○●記念日、再会、お別れ・・・などなど。
お色直し?そう。
ホテルのレストランや専門店(?)をムカシは利用していた。
でもなんか、モノ(が)たりない。
※ 奄美市で唯一の中華料理店かも。
気にはなっていたが、初めて足をはこぶことができた。
「夜上海 中国家庭料理店」という看板のこぶりなお店。
一人2500円のコースで7品ほどあじわった。
中国家庭の薫り(?)がしてうまかった。
春巻きや餃子などにも、初めてあじわうフシギな具がつつまれていた。
店主は北京生まれ、上海経由(らしい)の麗人。
いかにも漢族美人である娘と孫娘の3人は中国語ではなしていた。
孫娘は、客用のカウンターで小学校低学年用の宿題にはげんでいた。
なんでまた奄美で・・・?
興味はあったが、一見なので聞か(け)なかった。
※ 横浜、神戸、長崎の中華街を徘徊していたころの風景がよぎった。
次に、東南アジア(5カ国で)の中華街。
さらに、韓国・台湾・インド・・・の屋台や食堂なども。
おっとぉー、北海道からオキナワまでの味と人たちまでが・・・・・・
つましくも、豊かだったトキとトコロとヒトたちと。
・・・でもここは、名瀬のヤンゴ(屋仁川))の片隅、中国家庭料理店。
オッカンとトゥジ(カミさん)のシマ味で満喫している(きた)30年のトキの流れのただなかだ。
ワンだけの小さな星(イノチ)のかずかずが、小さなテーブルに一挙に舞いおりた。
食事中のこんな体験はホントにマレだ。
ありがたい、デザート以上のおまけつき。
※ 実は、トゥジのおごりで、昨夜は59回目のワンの聖誕祭!(^.^)
帰宅すると、末娘がワンのボロボロスニーカーの衣替えをプレゼントしてくれた。
死んでも楽しく歩くのだ、それぞれの「しまぬ世」とともに。
そうやって、137億年間、ずーっと生き、「続」けてきたんだから、みんな。
※ ところで、「糸を売る」ことが「続く」だが、今の大島紬は糸が売れなくて困っている。
ついでに、「言を売る」ことが「読む」だが、今の読書界は言が売れなくて困っている。
漢字=象形文字ちば、、自給や交換時代の後、「貨」幣経済時代にできた概念かい?
そういえば、「売買」の旧字体は「賣賈」で、「貸」なども貝が基礎になっている。
さらに、負財貧賀貴貰貯費資賎贈贄贔・・・などキリがない。
この貝たちは、古代のわきゃ琉球弧の島々の宝貝だったという説がある。
中国大陸と奄美の島々、宝貝や夜行貝などではるかな時代からつながっていたのだろう。
最近は、朝鮮半島とのつながり論も盛んだが。
奄美の「中国家庭料理店」で思わぬ時空をトリップし、ふくよかな気持ちになれた。
来年は、ぜひ3000円コースへ!(^.^)
なによりも、今日、ここ奄美の「しまぬゆがなし」のたちへ、とぉーとぉーがなーしー!
(^ム^)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜95)
10/29(き=木) 旧9/12
(火の弟 羊)
こ(子)読み
|
★ 一行でいいんです
★ 作家、安達征一郎は一貫して南島しか描かない。
彼の小説には、特定の人物とか背景はでてこない。
どこか、南の島でのものがたり。
それが、あらゆるいのちたちの普遍性につながっていく。
「ヒトのカミ」以前の自然界へ・・・
・・・ところが・・・
「実は、「伝記」を書く予定です」
「宮崎時代と女房を中心にします」
「奄美から宮崎に来るまでの「密航」も書きます」
「今回は「密航」の資料を求めて奄美に来ました」
「今日いただいた資料(3冊)で十分です」
「一行でいいんです。そこからいくらでもふくらんでいきますから」
ホテルのロビーで静かに語ってくれた、安達さん。
やはらかく飾りのない、芯のしたたかさ。
『憎しみの海・怨の儀式』の読者にはたまらない情報かと。
「小さな島の小さな物語」の続編が読めるのだ!
^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※ 「私もトシです。もう皆さんに会うこともないでしょう。
これが最期です。なんでも聞いてください」
講演会の終盤の30分間、聴衆にひょうきんになげかけた。
質問もそうだが、安達さんの答えも深かった。
新聞は短くまとめているが。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜94)
10/28(むずぃ=火) 旧9/11
(火の兄 午)
こ(子)読み
|
★ 奄美の感性が七島灘を越えるのが難しかったのだろう
☆南島小説家、安達征一郎さんの講演会があった。
講演会の前夜、藤井令一さん宅から電話がはいり、ホテルのロビーで会う。
当日、会場で『憎しみの海・怨の儀式』を販売するためのうちあわせ。
2時間以上も、2人だけで雑談ができた。(^.^)
至福のときの流れに感無量だった。
講演会後、安達さんを囲んで懇親会(7人)。
3時間ほど、楽しくお話が聞けた。(^ム^)
内容については、追ってコメントします。
とりあえずは、新聞記事を。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
南海日日新聞(10/27)
七島灘に感性の断裂線
県立奄美図書館で安達さん講演 |
▼ 小説家安達征一郎(本名森永勝巳)さん(83)=宮崎市=の文学講演会が24日、奄美市名瀬の県立図書館であった。安達さん自身の初期作品で出現した、文壇と奄美の対照的な評価例などを挙げて、「本土の人は悪意があって分からないのではなく、奄美の感性が七島灘を越えるのが難しかったのだろうと思っている」と語った。直木賞での2度の選外経験について「非常に不満だった。日本文学は長く読んでいない」とも語った。
安達さんは東京生まれ。6歳で両親の出身地奄美大島に戻り、少年時代を喜界島で過ごした。「怨の儀式」と「日出ずる海 日沈む海」で直木賞候補。今年6月、小説集「憎しみの海・怨の儀式」を出した。講演で安達さんは生い立ち、作家デビューのきっかけ、作品の源流や反響などを紹介。その上で、フィクションにこだわった執筆活動に触れて「長く残る小説にしようと常に思ってきた。トレンディー物や私小説は書かないと決めていた。人物・背景は南島。それだけ」と話した。
会場は高校生や喜界島からの遠征組を含め80人で満席。質問に答える形で披歴した作家論の中で「フィクションこそ文学だと思っている。自分の小説で人を傷つけるなというのが持論だ」とも話した。
|
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜93)
10/27(ぅまてぃ=火) 旧9/10
(木の弟 巳)
こ(子)読み
|
★ 「しまぬゆ」、長寿者たちの世界観
奄美新聞(10/26)1面トップから
自宅居住の超高齢者
確立した生活スタイル継続
奄美群島調査研究
|
「生かされている」少数派
※ 奄美群島は人口10万人あたりの百歳以上長寿者の割合(粗百寿者率)が115・54人(2009年9月1日調査)と、沖縄県(67・44人)より高い。後期高齢者の区分から85歳以上を「超高齢者」として捉える研究が進められており、奄美で自宅に居住する超高齢者は確立した生活スタイルをもち、「生かされている」という感覚は少数派となっている。
自然と一体感の暮らし
※ 立命館大大学院社会学研究科の冨澤公子さんが学会誌『老年社会学』で発表した。父親が徳之島出身の冨澤さんは奄美の超高齢者の研究を続けており、群島内2町村の自宅居住超高齢者11人(年齢85〜101歳)を対象にした聞き取り調査結果をまとめたもの。
それによると、自宅居住の超高齢者は、孤独感や過去に浸るという後ろ向きの傾向がなく、日々の生活に満足感をもっていることが判明。「確立した生活スタイル」を継続し、自分に適合した自立生活を営みながら積極的に100歳を目指している。
こうした精神世界を形成する基盤として@居住空間としての奄美群島の環境A自分の畑があるBおおらかな適応ーを挙げる。家族や周囲との絆を感じる支援があり、それによって長生きしようという思いが強くなる。また、豊かな奄美の自然との一体感で「ここに生まれてありがたい。ここは住みよい」という今ある環境への感謝の気持ちに満ちている。
自分の畑の存在は、超高齢期にもできる作業の場が与えられ、ささやかながら実りをもたらす。普段の受身的な立場から役に立っているとという逆転した立場になれことで、畑は超高齢者に能動的な感覚をもたらす存在にある。
冨澤さんは、奄美群島の超高齢者11人の語りから明らかになったことは、「人は生きる目標があることで、生きる存在であること」と考察。長生きは先祖の「おかげ」と思っているが、「生かされている」対象とは思っていない。冨澤さんは、その理由を示唆する親ユタ(奄美のシャーマン)の言葉として「神に頭を下げることを忘れても、水や太陽に頭を下げることを忘れるなっちゅうのが奄美」を紹介。
奄美の人たちの自然と一体感をもった暮らしからは、「生かされているのは形而上学的な神ではなく、自然なのである。そこには自分を包む存在としての自然があり、ご先祖様がある。ここで暮らす超高齢者には、かつての日本にあっていまは廃れた生活と密着した宗教性が残っている証ともいえるのではないか」としている。
|
※ 先月の「鎮魂譜82」で紹介した記事と連動する内容だ。
ここに、ワンが標榜する「しまぬゆ」の原基がありそうだ。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
9/20の奄美新聞、1面トップ。見出しだけです。本文は「鎮魂譜82」まで(詫)
「年寄りや わきゃシマぬ宝」 地域が支える 小規模多機能ホームに注目
奄美本来の姿再現めざす
|
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
きのうは、旧暦の9月9日。
カケロマでは「
諸鈍シバヤ」。
大島は龍郷町の安木屋場(あんきゃば)では「
今井大権現祭」が執り行われた。
ユネスコの無形文化財にも指定されている諸鈍シバヤは、平家とのつながりが説明されるが、さて、どうだか。
800年の歴史というのもあやしいこじつけでは、とワンは観ている。
それに比べて、安木屋場のマツリは、しまの古層に生きている深い味わいがある。
ワンも昔、ススキなどを折って参加(?)させていただいたが、このときは純粋に海と太陽を拝む気持ちになった。
また、上に挙げた記事の中に、親ユタ(奄美のシャーマン)の言葉として
「神に頭を下げることを忘れても、水や太陽に頭を下げることを忘れるなっちゅうのが奄美」と教えているのは、ほかならぬこのマツリの親ユタである、阿世知照信さん(81)その人である。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今日の奄美新聞(10月27日)8面から紹介する
今井大権現神社には「太古の竜神(女神)が神代の始まり」との伝えがあり、自然界の神と交信できるというユタなどが神をお供する。近くで難破した船を女神の宿る白い鳥が救ったとの言い伝えもあり、祭事ではその鳥をかたどった神具も使う。
祭りは潮が満ち始めた朝、立神を臨む浜辺の祭り岩で始まった。神主で、ユタの親神でもある阿世知照信さん(81)が神口を唱え、白装束の女性らがススキを手に祈って女神を招き寄せた。続いて神社近くの山頂で太陽の男神を降臨させ、男女2神を結び合わせて神社にお供した後、地域住民らが祈願した。
|
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜92)
10/23(くがに=金) 旧9/6
(火の弟 丑)
こ(子)読み
|
★ 茶坊主どもの行進曲
※>11月1日(日)、第一弾として、鹿児島市で
「鹿児島・沖縄 歴史・交流促進シンポジウム」(みなみホール=南日本新聞社)。
>11月21日(土)、第二弾は、奄美市で
「沖縄県・鹿児島県の400年記念交流イベント(?)」(奄美文化センター)。
※しかし、フィナーレ(?)の第三弾がまちうけていた。
11月28日(土)、鹿児島は山川での
琉球・山川港交流400周年事業。
ワンはこのイベント、今年の春ごろから知ってはいた。
でも、単にお茶をにごすイベントだろうと軽くみなしていた。
奄美からの代表が、ノー天気な御仁だったからだ。
さすがだ、敵もさるものプロ集団、こちとらはひとひねり。
基調講演をあの
原口泉がやること。
パネラーーに、安里カツ子氏 (
沖縄県副知事)と、岡積常治氏 (
鹿児島県副知事)が出席すること。
そして、
「両県副知事による新交流宣言」があること。
などなどは、きのうの
「与論島クオリア」ではじめて知った。
今年(2009年)を「交流元年」とするノー天気な発想と策略にもぶったまげた(怒)。
ワンは今年を「しまぬゆ元年」としているのだが。
ずいぶん手のこんだだまし討ち。
なるほど、これがいまだに奄美不在の両者(鹿児島と沖縄)の400年の総括というわけだ。
いったい、いつのまに、こんな内容になったのか。
昔は鶴丸城、今は鹿児島市・郡元の伏魔殿。
奄美諸島を食いつづけるための謀略や密約が暗躍している。
奄美の住民は何も知らないところで、だ。
いや、奄美の手先たちもあいもかわらずグルになって・・・・・・だ。
400年間、アマミはなんにも変わっていない。
これでいいわけ?
1,609年から400年間の鹿児島県と沖縄県間の歴史がある。
が、しかし、奄美八島の先人と住人たちの総括(歴史と現在)を度外視しては考えられないはず。
この400年間、奄美を道具に、彼らはいったい何をしてきたのか、私たちは何をされてきたのか!
現在、彼らは何をしているのか、私たちは何をされているのか!
相互の事実確認(検証)が前提でなければなにも始まらないはず。
いまだに、(鹿児島でも沖縄でもない)宙吊りで、真空パックの奄美の歴史と現在。
それはそれでいい。
アマミ⇔カゴシマ、アマミ⇔オキナワ。
それが、カゴシマ⇔オキナワだけでまたもや握手するのだ。
沖縄と鹿児島の交流は、誰のため?
400年、ミチノシマの不在と利用は健在だ。
まさに、「人を食った話」(歴史=線路).は続く〜よ〜 い〜つま〜で〜も〜
鬱々から沸々へ・・・・・・
※ 一 今夜はいい月だ。
二 きょうは全然月がなかった。こいつはまずいと思った。
三 夜はどうしてもねむれない。何事も研究しなければわからぬ。
四 朝のうち、しばらくおれはじっと落ちついていた。
五 この二三日、一歩退いて考えてみた。
六 まっくらで、昼だか夜だかわからん。
七 彼らのやり口がわかった。
八 だが、こんな理屈は、今日となっては、彼らにもとっくにわかっていいはずだ・・・・・
九 自分は人間を食おうと思い、一方また人間から食われはせぬかと思って、ひどく疑い深い目つきで、お互いに相手の顔をうかがっているのだ・・・・・・(略)「お前たち、たった今改心するのだ。心底から改めるんだぞ!いいか、いまに人間を食う人間は、この世に容れられなくなるんだ・・・」
十 朝早く兄貴に会いに行った。
十一 太陽も出ない。戸もあかない。毎日毎日二度の食事。
十二 考えることができなくなった。(略)四千年来、人間を食って来た経歴をもつおれは、最初知らなかったが、今わかった。真の人間はめったに見られるものでないということが。
十三 人間を食ったことのない子どもなら、まだいるかも知れぬ?
子どもを救え・・・・
『狂人日記』(魯迅) (一九一八年四月)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜91)
10/21(てぃき=月) 旧9/4
(土の弟 亥)
こ(子)読み
|
※ 最近、萎え気味のところへ、追い討ちをかけるようにいやなニュースが飛び込んできた。
やれやれである。
沖縄タイムスの記事で、沖縄県からだ。
1,609年(400年)の情報を一番提供してくれている、喜山さんの
「与論島クオリア]から。
なに、これ?
「薩摩侵攻400年で交流 県・鹿児島県がイベント開催 11月に奄美大島で」
「両県の知事が奄美で交流」!?
それも、わずか1ヵ月後に。
そんな、レキシ的な行事が?
いつ誰が決めたんだ?
そんな話、今までなんにも聞いたことがない。
地元紙の記者に尋ねたら、「詳しい内容がまだ決まってないということで、県からの情報待ち」ということ。
11月1日(日)の
「鹿児島・沖縄 歴史・交流促進シンポジウム」も不意打ちで実に悪質だ。
参加希望者は往復葉書での申し込み(わずか300人)のうえ、締め切りは、9月30日だと。
もう、とっくに終わっているではないか!
一人で二人分申し込めるので、150人のイベント関係者たちが申し込めば、もう席は埋まるのだ。
10月3日、民間主催の400年集会が鹿児島市であったが、その関係者たちでさえこのことを知らなかった。
また、南日本新聞紙上での記事や案内も見ていないそうだ(仙田氏談、鹿児島市在住)。
そこまで姑息な手段を使って行政上の手続きだけを進めるのか、鹿児島県よ。
シンポジウムの座長は、奄美群島振興開発特別措置法の審議会会長である、
宮廻甫允だ。
なるほど、またか。
彼は、鹿児島大学の教授だが、奄美関係の公共事業(アマシン)各種の検討会や委員会では常連の会長さんだ。
「奄美のまちづくり(拝み山トンネルなど)のありかた検討委員会」。
第1回鹿児島港における奄美・沖縄航路の位置付け検討委員会などで、目にしてきた御仁。
11月1日(日)、第一弾として、鹿児島市で「歴史の促進交流」(みなみホール=南日本新聞社)。
11月21日(土)、第二弾は、奄美市で「文化の促進交流」(奄美文化センター)。
奄美のいや鹿児島の住民たちにも知られないようにして、水面下で仕掛けられていた、のだ。
この交流イベントも申し込み制?(まさか!)
さらに怒るべきコトは、11月21日(土)の翌22日(日)、奄美市では市長選の投開票日なのだ。
奄美市民も市職員もそんな降って沸いたような「両県の交流イベント」どころではない。
この9月に任期途中で突然辞任した、
平田奄美市長にとっては、最期の花道になるのだろうが。
鹿児島県(島津)も沖縄(琉球)もまたもや奄美不在の歴史をつくろうとしている。
それも、奄美の地に知事たち自身が乗り込んで。
共同声明のための調印式でもやるんじゃないか?(まさか)
まだ、内容は未発表だが、そこまでやるか、鹿児島と沖縄の為政者たちよ!
植民地奄美にとっての400年モンダイは、いよいよ深刻になってきた。
やれやれだ。
400年間、権力者たちがしかけてくるいつものできレースだが、いつまでたってもなめられっぱなしだ。
まずは、終わってからだが。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜90)
10/19(てぃき=月) 旧9/2(火の弟 酉)
こ(子)読み
|
※ 今から40年以上前の高校時代。
登校がいやで、鹿児島市内の「ナポリ座」で映画を見たあと、ジャズ喫茶にもぐりこむ。
でも、ほとんどは中央公園、城山、磯公園などで寝そべっては雲や波とたわむれた。
※ 鹿児島市の「400年集会」から、2週間前に帰ってきた。
このHPへも「投稿拒否」の状態にある。
なにかと心がおちつくまで、書けそうにない。
これといった理由はとりわけないのだが、なんだか書く気になれないのだ。
自分がいやになった状態だ。
ということで、ご了解を。
欝気味の近況 まで。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜89)
10/5(てぃき=月) 旧8/17(水の弟 未)
こ(子)読み
|
※けさ(5時過ぎ)シマにもどった。
鹿児島市での
「島津藩による奄美・琉球侵略400年ー奄美の未来を考える集会」(10/3)参加のため。
今日付けの南海日日新聞では1面トップのスペース。
奄美の歴史など広報・教育を
新県史に研究者も使命
島津藩侵略400年で集会
鹿児島市
|
紙上には載らなかったことなどをひとこと。
山下欣一:「1700年代、大島の宇検に漂着した薩摩役人の文書では、島民は男か女か判別がつかなかった・・・」
山田隆文:「私は幼心にジュウ(祖父)の話を聞かされたため、自分の先祖がヤンチュで奴隷だったことを少年時代には認識していました・・・」
向原祥隆:「さっさと分県運動なりして、独立すればいい。(略)しかし、奄美が鹿児島県であるかどうかは、文化の独自性に比すればどうでもいいことかもしれない・・・」
沈 壽官:「韓国に留学したとき、教授から、君は400年間の日本の垢を落としなさい、と言われ、バカらしくなった。本当の朝鮮人とか日本人とかあるものだろうか・・・」
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
パネラーのあと、会場からは3人が発言した。
参加者は予想以上で、200人から250人。
トップの薗博明さんが奄美からの報告に時間をとりすぎた。
もっと、鹿児島のシマンチュの話を聞きたかったのに。
「奄美の自然・文化・歴史の広報・教育に関する陳情書」(12月の鹿児島県議会に提出予定)を採択。
シマウタ、新民謡のあと、おひらき。
会場の教育会館の前の中央公園で、龍郷町戸口郷友会の八月踊り。
100人近くの踊りの輪が中秋の名月の下で繰り広げられた。
生まれて初めて、鹿児島市のど真ん中で踊りまくったが、なんとも、複雑な思いだった。
ハヤトが奈良の都で歌舞したこととリンクしたからかも。
そのあと、「でんすけ」で打ち上げ。
「今日の集会は、400年モンダイの始まりですよね」と提起して、確認。
二次会・三次会のあと、南方新社の社屋で泊。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
翌日は、仙田さんが迎えにきた。
前夜、宮崎からやってきた次女(みこ)と落ち合い、名瀬小・金久中での友人・保 照光夫妻と食事。
奄美大島の芦花部出身、一級建築士として現在、鹿児島市でリフォーム会社を経営しているがんばりもの。
「鎮魂譜39」で紹介した保の「
地中別荘」や
「日よけ」の作品だが、今年の
日本グッドデザイン賞に応募。
なんと先日(10月1日)3000点近くの応募作品の中から、
、ダブル受賞!した。
「フラクタル日よけ」のほうは金賞(15作品)を射止めて、11月6日には大賞の発表待ち。
受賞作は日本と韓国などの大企業ばかりだ。
すごい・・・!につきる。
世界が市場だから。
応援のメッセージや
投票をいただけるとシマンチュ同士として、ありがたいのですが。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
1,609年をめぐるこの一年、ひとつひとつのできごとがめまぐるしくかけぬけていく。
2009年も、あと3ヶ月。
年内、鹿児島県(行政)サイドで、1,609年のイベントがこれから二つあるそうだ。
内容を見ると、鹿児島でもやりましたよ、という事務手続きみたいなものだ。
いつだって、終わりが始まりだけど。
なんとか、次の始まりへの足がかりだけはできたかもしれない。
ワンは奄美でやれることをシコシコやっていく、だけ。
東京での
「奄美と沖縄をつなぐ」(11/14)イベントの喜山さんたち、沖縄との多様なつながりかたも楽しみだ。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜88)
10/1(っくぃ=木) 旧8/13(土の弟 卯)
こ(子)読み
|
※さっき、奄美市9月議会の文教委員会を傍聴してきた。
全会一致!で採択!(喜)
※「郷土教育充実に関する市町村・県への陳情書」(2009・8・30〜)
奄美にとっての「1,609年(400年)問題」を問い続けて13年目。
これで、全郡的なはずみがつき、具体的な課題にはいっていける。
奄美諸島独自の「自然・文化・歴史」、それぞれの分野での郷土教育体制が開かれる。
これで、ひとつ、ワンの仕事のめどがついた。
とりあえずは、これまでの「ワンぬ世」に大乾杯!!
まずはそれぞれのシマ島からだ。
次に、鹿児島や沖縄島やその他の連なる島々へ。
行政圏は関係ない。
黒潮文化圏や照葉樹林帯文化圏との連帯だ。
ここアマミのシマ島は、アジアで、東洋区の、東北島嶼群(生物地理学上)。
南島(人)、南蛮(人)、道の島(人)、南西諸島(人)、琉球弧(人),ヤポネシア(人)・・・・・・・・・?
地球という島にあるもの、風光海土、山川草木、鳥獣虫魚。
あんかり む〜る(み〜んな) シマンチュ!だりょっかなぁっ(^ム^)
あまくま(あちこち) たむぃだむぃ(それぞれ) 勝手に 「しまぬゆ連合」を!
できれば、いいやぁ (^ム^)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜87)
9/30(むぃずぃ=水) 旧8/12(土の兄 寅)
こ(子)読み
|
※ なま むんしりや ふうきずぃぬ むとぅ
(なまはんかな 学問知識は おおけがの もと)
※ むんぬ しりはてや ねん
(物事の 知りはては ない)
※ むじぃや やまおかげぇ ちゅや せけんおかげ
(水は 山のおかげ 人は 世間のおかげ)
肝に銘じて 自戒する 今日このごろの 「しまぬゆしぐとぅ(オシエ)」。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜87)
9/29(ぅまち=火) 旧8/11(火の弟 丑)
こ(子)読み
|
※ きのうは、奄美の火の祭り、「あらせつ(新節)」。
奄美の各集落(しまぬゆ)では、アラセツの行事や八月踊りが繰り広げられた。
また、八月十五夜を前に、各集落では豊年祭に余念がない。
そんな中、きのうのアラセツで、龍郷町は秋名で「ショチョガマ」と「平瀬マンカイ」があった。
1985年に国の重要無形文化財に指定。
いずれも太陽と海の彼方”ネリヤカナヤ”からの五穀豊穣の神を招き、一年の豊作を祈願する行事。
その他の集落の「豊年祭」や「十五夜」も目的は同じだが、肝心の五穀の風景が消えてしまった。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
きのうの早朝、龍郷町秋名集落に出かけた。五穀豊穣を願うアラセツ行事のショチョガマを見るためだ。(略)
▼ことしも大勢の見物客がいた。田袋を見下ろす高台に設けられた片屋根が勢いよく倒れると、拍手や歓声で沸いた。祭りは稲作と密接に結びついている。保存会から見物客におにぎりが振る舞われたが、集落の水田で収穫された新米だった。
▼秋名、そして隣接する幾里集落は奄美で最大の水田地帯として知られる。水稲やマコモが栽培されているものの、7割以上の水田が活用されていない。年一回の祭りでは稲作が脚光を浴びるが、国の減反政策もあり稲作で収益をあげるのは困難となっている。
▼水田の再生を目指し、若い人たちが立ち上がった。換金作物としてターマン(田イモ)に着目、生産組合が結成された。口之島(トカラ列島)原産の優良品種を取り寄せ、現在、種イモを増やしている。
▼ターマンは地域の伝統的な野菜だ。イモだけでなく茎も「クワリ」として消費されてきた。栽培が軌道に乗れば、食文化が蘇える。ショチョガマの帰り道、水田地帯を通った。祭りで垣間見た熱気は、再活用の痕跡にもあった。
|
※ 田イモの原産地はマレー半島らしい。
水田(水稲)の渡来以前、野生(シイの実などの)採集から、根栽(サトイモ、ヤマイモなど)、
、焼畑による雑穀(アワ・ヒエ))などがリュウキュウコ古代の五穀であり、、「しまぬゆ」マツリの古層の五穀だった。
それが21世紀、リュウキュウコの島々で徐々に復活しつつあることを喜びたい。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜86)
9/28(てぃき=月)旧8/10(火の兄 子)
こ(子)読み
|
▼ 「
三七の会」からのビッグニュース(?)をひとつ。
※「郷土教育充実に関する市町村・県への陳情書」(2009・8・30〜)
衆議院の投票日(8月30日)に急ぎ第一陣を送付した瀬戸内町議会と徳之島町議会。
きのう、
「郷土教育充実の陳情書を採択しました」との返書が両町議会から届いた。
某教育長から聞いたところでは、奄美でこのような内容での陳情と採択は初めてとのこと。
やったね。(^ム^)
やってみるもんだ。
あと、残り10の奄美群島の市町村議会と、鹿児島県議会からの返事も楽しみだ.。
これをテコにして、シマ島の教育界や住民自身が1,609年に光をあててほしい。
また、2009年からのそれぞれの「しまぬゆ」づくりへ歩みだしてほしい。
が、そのためにも漸次、もっと具体的な提案と要望を続けていく。
一連の新聞の連載やシンポジウムの報告などからは、400年間の今までと、これからそれぞれの「しまぬゆ」で生きていくフツーの島人たちののカオと思いが見えてこない。
それが、一番肝心なことのはずなのに。
「歴史観の再構築を」(南海日日新聞5/18付見出し/鎮魂譜49)は、権力者と研究者たちがつくるものではないからだ。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜85)
9/26(にちゃ=土)旧8/8(木の兄 戌)
こ(子)読み
|
▼世の中、あわただしく、おもしろくなってきた。
しかし、変わらない、世の中(しまぬゆ)もありつづける。
2009年9月23日(旧8月5日、秋分の日)の南海日日新聞から(備忘のために)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ことしも家回る伝統行事
加計呂麻・芝集落
子どもら「バッケ、バッケ」 |
○・・・「バッケバッケ トゥティブリ ムレーガドキャーオドスカ(おばちゃん、おばちゃん、カボチャもらいにきたよ)」ー。
瀬戸内町加計呂麻島の芝集落(橋口諸廣区長)で21日夜、子どもたちが歌い踊りながら家々を回り、お菓子をもらう「バッケバッケ」があった。
○・・・豊年祭前夜に行われる伝統行事。午後7時半ごろ、公民館前に集合した子どもたちは、たいまつを先頭にアガレ(東)、イルイ(西)の二手に分かれ、元気に歌い、踊りながら、家々を回った。訪問を楽しみに待っていたお年よりも太鼓を手に一緒に歌を楽しむ姿が見られた。最後に六調を踊り、テル(かご)に準備していたお菓子を投げ入れた。子どもたちは全50世帯を回り終えると公民会に戻り、お菓子を分け合った、
○・・・伊島秀彦老人会長(83)によると、昔は住民全員が参加し、東と西に分かれ、カボチャやキュウリ、マメなどをもらい、女性らが料理。互いにもらったものや料理は見せず、その豪華さを競った。各家庭での踊りには無病息災への願いがあったという。参加した徳永千春さん(薩川中1年)は「最初は恥ずかしかったけど、今はみんなで一緒にお菓子をもらったり、家を回るのが楽しい」と笑顔で語った。
|
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜84)
9/23(むじ=水)旧8/5(火の兄 未)
こ(子)読み
|
▼ 「シマグチの消滅の危険」のことがやっと!今日(9/23)、地元の南海日日新聞のコラム、「南海天地」にのった。
もっと、「奄美(諸島)語の消滅の危険」についての情報を提供するべきと思うのだが、まぁ、初回だから、遅きにしてもよし!
きのう、オキナワと、「観光と軍事の植民地
グアムと
ハワイ」についてコメント(鎮魂譜83)したが、アマミも同じだ。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
「ひとつの言語が消えるということは、その民族が築いてきた世界が消えるということ」。グアム島の先住民族チャモロの人たちと交流を続ける友人Kの言葉に胸を突かれた。
▼彼女が最初にグアムを訪れたのは10年ほど前。リゾート気分で出掛け、カルチャーショックを受けた。島の3分の1を占める米空軍基地。主な景勝地は日本資本の観光ホテルとゴルフ場で占められ、チャモロの祈りの聖地ココス島も今や日本の観光資本のマリンレジャー基地に。自治区とは名ばかりの、米国が実質支配する信託統治下で公用語は英語。目の前の海は基地やゴルフ場からの排水で汚染でされ、漁は禁止。飲料水や食料は割高な米国本土からの移入で賄わされている。
▼人口の40%を占めるチャモロの民。政府の仕事や教職に就くものも多いが、最近では安定収入や高等教育を求めて入隊し、イラク戦争で命を落とす若者も増えたと聞いた。交流は今も続き、友人kは失われゆくチャモロの唄や踊り、習俗を記録し伝えようとしている。
▼「6800以上ある世界の言語の96%が話者数の限られた極小の言語。それは生物種の絶滅をしのぐ勢いで消滅しつつあるか、消滅の危機にある」(「消滅の危機に瀕した世界の言語」明石書店刊)との指摘がある。シマグチもその中に含まれている。
▼「あなたの住む奄美も一時期米軍政下にあったんでしょ?でも、チャモロの人たちは今もそうなの」。返す言葉がなかった。
|
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ 奄美の公用語は日本(鹿児島)語。
食料その他は割高な鹿児島本土からの移入で賄われている。
自給率は?%
軍事基地はさほどはないが、日本国(鹿児島県)のコンプリートなインフラ(基盤整備=コンクリート)植民地、アマミ。
返す言葉は、まだまだあるよ。
連帯してやろうぜ!
オキナワ&ハワイ&グアム&・・・・・・・・・・・・・それぞれの「しまぬゆ」へ!
しまぬゆ=コミュニティ=民治=しま連へ!
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜83)
9/21(てぃき=月)旧8/3(土の弟 己)
こ(子)読み
|
▼ 今日は、沖縄から琉舞の一団さん(11人)を昼からご
案内した。
照屋倫子・会主をはじめ、超・美女美男(?!)たちとワキアイアイ、ほ〜らしゃん、しま時間だった。
想えば、琉大勤務時代の関根賢司&愛子ご夫妻がオキナワを去ってから、長いトキがながれた。
この間、オキナワビトたちとの交流がかなり疎遠になっているのにあらためてきづかされた。
いまや、
高良勉や
松島泰勝たちを介して、たまさかのリューキューの風をすっている。
あのころは、かなりこい風がアマミとリューキューをふきぬけていた。
あらためて、ケンジとアイコに眞謝!
薩摩・琉球交流 400周年記念公演
思(うむ)いぬ架け橋
紅倫の会
喜界町・自然休養村
9月22日(火)、14時&18時開演
|
『しまぬゆ1号』の読者で、喜界島出身、沖縄在住の
時本ひとみさんから、「(上の)公演のため奄美空港の乗り換えで、4時間あります。ついては、その間、津代(ツシロ)の戦跡地で慰霊をしたいのですが・・・」。
との要請に喜んで応じた。
薗博明さんとワン、それから時本さんの友人で奄美市役所の職員2人が同行した。
薗さんは、前日から山道の草刈や埋葬所の手入れなどで汗を流された。(謝)
▼ 「アッサ〜ヤンバル(山原)に来たみたいさ〜」
みんな、異口同音にあの笠利の平坦地で、印象を発していた。
もっと時間があって、龍郷から南部大島の高い山波や深い峡谷を縫って走ったら、どんな印象をもたれただろうか。
また、国の有形文化財指定、薗屋敷の奥(カミ)深いたたずまいにもみなさん感銘を受けられていた。
おもしろかったのは、昼食をいただいたあの「リゾートばしゃ山村」で、「沖縄より雰囲気があるさ〜」とほめていたことだ。
ワンなどには、よそよそしいアナザースペースなんだが・・・・・・
奄美諸島につながる沖縄諸島には美しい海浜がまんでぃ(たくさん)ある。
しかし、オキナワのおいしいビーチはヤマト資本の大型リゾートに占拠され、にぎにぎしくもわびしい光景が目に浮かぶ。
なぜか?
たぶん、そこに「しまぬゆ」がないからだろう。
観光植民地の商品、「オキナワノアオイウミ」がショーウインドウに飾られている。
軍事植民地を覆うように、
ハワイや
グアムのごとく。
最後に立ち寄った水平線がまんまるく目視できる眺望グンバツの笠利町の「あやまる岬」。
そこからのまんまるい視覚には、観光客用のコンクリゾート施設が目にとどかない。
我々は、このアマミの豊かな天然色こそを活かすべきだ。
世界自然遺産の真の目的とは?
地球という母なるしま=シマ島(自然)が、すべてのイノチを輪廻するカミ(ノン・カネ)である。
それを実感し、敬い、後世につないでいくココロのプロセスだ。
そのほかにも、奄美と沖縄の異同質がいくつかほの見えてワンには楽しい半日だった。
美酒・泡盛までも土産にいただき、うふくんでーた!み(に)ふぇでーびる!
あす、
「紅倫の会公演」、喜界島でのご盛会を大島から祈ってます。
次やぁ、ぜひ、大島なんてぃ!
(^ム^)
▼ 「1,609年」や『しまぬゆ』からの浅からぬ縁。
「笠利・ツシロの戦跡での慰霊」など、この400年間、アマミ&リューキューの島人たちには無縁のトキとトコロだった。
沖縄と奄美のフツーの島人たちがこうしてここでつながっていくことの自然なヨミガエリを今日、実感させていただいた。
まさに、
思いぬ架け橋!
てぃーだがなしのひとみさんとそのご一統さまたちへ。
うふくんでーた!
み(に)ふぇでーびる!
隔ての海を、結びの海へ!
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜82)
9/20(てぃだ=日)旧8/2(土の兄 辰)
こ(子)読み
|
▼
「しまぬゆ」とはなにか?
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
9/20の奄美新聞、1面トップから。
「年寄りや わきゃシマぬ宝」
地域が支える 小規模多機能ホームに注目
奄美本来の姿再現めざす
|
寝たきりや認知症などで自宅での介護が困難となり、施設に入所する高齢者は後を絶たない。長寿の島・奄美には介護保険制度の下で多くの医療福祉施設があるが、入所者に共通して刻まれているものがある。「シマ(集落)への思い」だ。それが心の拠り所となっている。人々を支えてきたシマの力が次第に失われつつある中、再び機能を高め、小規模な地域密着型の介護を目指す新たな試みが胎動しようとしている。「年寄りや わきゃシマぬ宝」が再び輝く。
「奄美を年寄りの力で元気にするプロジェクト」(仮称)を立ち上げたのは、作業療法士の北山夏樹さん。東京出身の北山さんは福祉の先進地・デンマークなどで学んだ経験がある。日本の医療福祉施設が「お年寄りを社会から隔離する箱になっている」と感じた北山さんは新たな福祉のヒントを探しに2年ほど前に奄美に来た。
共感を得たのは「結い」に象徴される奄美に残るシマの共助、協働機能、集落への所属感やアイデンティティ、季節や自然に溶け込んだエコな生活、年長者や先祖を敬う心など。何よりも島の人のおおらかさを育んだ「シマ時間」の魅力に浸った。
取り巻く環境により高齢者のなかには長寿を悲観する風潮もあるが、北山さんは奄美の高齢者が長生きを願う気持ちの多さに注目した。これは神戸大学大学院人間発達環境学研究科が行った調査(奄美群島超高齢者の実態調査)でも明らかになっている。
郡島内の3町村で自宅に居住する85歳以上の高齢者を対象にアンケートしたもの。その結果、暮らし向き、生活満足度、地域愛着度が高く、日常行動は多様で楽しみごとが多いことがわかった。老いた感はあっても孤独感は低く、健康状態が普通以上の人は「百歳を目指し、生きた証を子や孫に残したい」など、前向きな生の強さが示された。
北山さんは「奄美のお年寄りは社会とのつながり意識が強い。これを大事にしたい。生まれ育った自分のシマで最後まで暮らしたいと言う思いに応えたい」と話す。
シマの現実はどうだろうか。かつての生活共同体は崩れつつある。超高齢化、限界集落の問題、就職難、若い世代の人口流出、個人主義の流れなどによって。北山さんは考えた。再びシマの機能を確立し、そこに小規模で地域型の介護事業所や医療機関との連携があれば、「地域が高齢者を支えきる社会、大量収容施設がなくなる社会、認知症の人が自由に散歩できるバリアフリー社会という究極の福祉体制ができる可能性がある」。
シマを元気にし、高齢者の価値を再発見する。これを顕在化するため、@オンラインショップの開設・運営(インターネット上で商品を販売。奄美の文化を商品にし、集落ごとのPR)A小規模多機能ホームの開設・運営(空き家や公民館など既存施設の活用)。B教育・研修、人材育成、評価・研究ーをプロジェクトの柱に掲げている。
介護保険制度の改正で、地域密着型サービスの一つとして新設された小規模多機能ホームは、「自宅や地域で、自分らしく、これまでの暮らしを続ける」ことができる介護を掲げている。これが実現すれば、高齢者が願うシマでの一生がかなう。
奄美市笠利町に住む北山さんは活動開始に向けて、まず同町内にある集落でのモデルづくりを検討中だ。文化財研究に取り組んでいる中山清美さんもプロジェクト賛同者の一人。歴史や文化の側面から、地域に長年居住するお年寄りはシマの宝という視点は重なる。モデル選定のための現地視察など協力していきたい」。
シマの共助・協働の力(結いの力)を蘇えらせ、地域主体の小規模地域密着型介護システムの確立。この奄美本来の姿の再現は、現在の医療福祉の在り方を変えるかもしれない。「敬老の日(21日)」に、シマの再興を図る一つの方法として考えたい。(徳島一蔵) |
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼
奄美本来の姿(=「しまぬゆ」)のモデルがあってこそのこのすばらしいプロジェクト(発想)。
その実現へ向けて、共に協力していきたいものだ。
あすはおりしも敬老の日、元気の出る情報と関係者たちに、エールのおぼこりを!
しま(シマ&島)には本来こういう「しまらしい」発想こそが必要だ。
行政(為政者たち)は率先して今後の指針にするべきだろう。
自然とヒトを食いつぶすだけのアマシン。
自然とヒトに育まれてきた「しまぬゆ」の再興プロジェクトへ!
ひとつひとつ・・・具体的に・・・動き始めた・・・2009年!
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜81)
9/17(っきぃ=水)旧7/29(木の弟 丑)
こ(子)読み
|
▼9/13の
荒地を「宝」に
の件で、県大島支庁の農村整備課に問い合わせた。
ワンのま(勘)違いがあったので、一つ訂正します。
「農地・水・環境保全向上対策」(水土里サークル活動)
これは、アマシンではなく、全国共通の事業。
だから、県もアマミの各市町村もそれぞれ25%ずつを負担しているとのこと。
だったら、もっと生産的な事業に活用されているのだろう。
と思ったら、龍郷町の2件を除いては、農地、農道、河川などの基盤整備的事業などに使われているとのコト。
やっぱり。
事業額の多いのは、
徳之島>沖永良部島>喜界島>与論島>奄美大島の順だ。
各島別の事業(
最後の(4)) 7−5(154p)の中身については明日、資料を取りに行くことにした。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜80)
9/16(むぃずぃ=水)旧7/28(木の兄 子)
こ(子)読み
|
▼ おもしろく、なってきた。
南海日日新聞の今日(9/16)の一面トップ
これで、平田奄美市長が10数年来、進めてきたムダな公共事業(約300億円)をツブす可能性がやってきた。
今度こそは、9回の表の戦いだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
平田市長 出馬せず
来春の奄美市長選
近く正式表明へ
11月選挙の可能性
|
記事は略します。
137億59歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜80)
9/13(てぃだ=日)旧7/25(火の弟 酉)
こ(子)読み
|
今朝の奄美新聞(9/13)の一面トップから。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
集落ブランド化へカボチャ根付け
龍郷町芦徳しまおこし隊
国の事業活用島外販売めざす
|
龍郷町芦徳集落の活性化を図る、芦徳ゆいの郷しまおこし隊(中原正栄会長)は12日、集落内の休耕地を活用したカボチャの植え付けをした。参加者は照りつける日差しの下、カボチャの集落ブランド化と農作物の自給率向上を目指して汗を流した。
同隊は今年4月、集落全120世帯を会員に発足。8月には、芦徳港近くにある草木の生い茂る”荒れ地”を整地して、約5e分の畑を確保した。植え付けには同隊のほか、町カボチャ生産部会員を含む約20人が参加。JAあまみ大島事業本部営農指導員の福哲也さん(38)が、堆肥や栽培の方法などを指導した。
(中略)
今回の植え付けは、2007年度から国・県で始まった、地域の共同活動、農業者の先進的な営農活動などを支援する「農地・水・環境保全向上対策」(水土里サークル活動)を活用。同町では11年度までの事業として、5地区(秋名、赤尾木、瀬留、龍郷、芦徳)で取り組んでいる。
中原会長は「将来はカボチャ加工品などを製品化し、集落の1ブランドにしたい。勤めの人も多く、手入れも難しいかもしれないが、集落一体となって取り組みたい」と意欲を見せた。
|
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼なるほど、先月の龍郷集落の水田復活の記事もこれとの関連だったのか。
龍郷町以外では取り組んでいないのだろうか。
また、南海日日新聞では、なぜか今回も記事にしてない。
アマシンは、こういう「むんづくり事業」には使えないのだろうか?
それが、一番のモンダイだ。
▼ ↑と書いて、少し、調べてみたらこの事業は農林水産省が平成19年度から、自給率向上のため、全国的に始めている事業で、なんと、アマシンの「農業農村整備事業」(旧、土地改良事業)の
最後の(4)の中に組み込まれていた。
しかも、県全体の約20%も奄美地区では事業化されている。
負担率は、国50%、県25%、市町村25%。
なるほど、県はアマシンを活用すれば負担せずにすむのだろう。
しかし、こんなに事業化されているのに、「むんづくり関係」で目に付く機会は少ない。
龍郷町の事業ばかりが目に付くのだ。
ワンの情報不足のせいかもしれないが。
おそらく、「旧土地改良事業」の土木事業(農村基盤整備)に回されているのではないか?
あす(月)、県大島支庁の農林整備課にたずねて見よう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
奄美新聞(8/5付)
カマの音も軽やかに
40年ぶりの稲刈り
龍郷集落手づくりの水田
(後略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
やはり、このHP、毎回タイトルをつけてカテゴリにせんといかんやぁ。
見づらくて、すみょうらん。
アナログなもんで。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜79)
9/11(かに=金)旧7/23(つちの弟 未)
こ(子)読み
|
今年7月31日の書き込みとの関連だりょん。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ きのう(7/30)掲載した多くの「見出し」の中で気になりながらも参加(傍聴)できなかった「会」がある。
「◆将来ビジョン策定懇談会。きょう奄美会館で」
この懇談会のもようが今日、地元両紙に載っていた。
〔奄美新聞〕:10年後の奄美像考える。人材育成や地域力再生。奄美大島・喜界島地区懇談会
(後略)
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
[奄美新聞]9/10付
第3回「奄美地域ビジョン(仮称)策定への徳之島地区懇談会」(県大島支庁徳之島事務所主催)は、9日、同事務所会議室であった。
(略)委員からは評価する意見のほかに、「挑戦の項目が多すぎて実現可能か。重点的に取り組むべきでは。過去何十年と取り組んできたものが入り、真新しいものがない」「事業の主体、仕掛ける人が誰であるか盛り込まないとビジョンに終わってしまう」「島の窓口を一本化すべき。仕掛け人・コーディネートする人材の育成が大事」(略)などの意見も。
傍聴人からは、「自然に戻す公共事業も必要」「伝統文化に方言の伝承も入れるべき」「地域の共同性・ユイに水田の復活を」など要望もあった。 |
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼地元からの発言は、どれも大切な意見・要望でうなづける。
これに対して、
県当局の「挑戦すべき課題と方向性(案)」を見てみよう。
半世紀以上続いているアマシンの事業目的と同じ、美辞麗句の羅列だけ、中身は空っぽだ。
これでは、10年後もいつまでも、金だけはかけた道やダム、橋や港やハコモノだけしか生まれない。
それが立証済みだから、地元は具体的な振興策を提案しているのだ。
@安心・安全で活力ある生活空間づくり
A地域資源を利用した産業の振興
B同島の特色を活かした産業の振興
C自然と共生する地域環境づくり
D地域文化・歴史の保存・伝承
E群島内外との交流ネットワークの形成 |
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼鹿児島県のお役人(経営者)たちは、奄美の島人が一番ナニを必要としているのか、なにも分かっていない。
復帰後、56年(2兆円強もの基盤整備費)。
それで、なにが、どうなったのか?!
奄美群島の直接支配(経営)から400年。
黒砂糖のあとのアマシンというドル箱を県本土がむさぼり続ける。
そのための「おためごかしづくり」だから、この程度(レベル)の経営能力(ビジョン)しか出ないのだ。
新聞の見出しを最後に。
「実効性」求める
仕掛け人の分担・明確化
将来ビジョン懇・徳之島地区
|
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜78)
9/9(むぃずぃ=水)旧7/21(火の弟 己)
こ(子)読み
|
▼
変われば変わるもんだ、政権が。
奄美大島は名瀬のヘソ、拝み山までその波がひたひたと押し寄せてきた。
9/4(金)、鹿児島県の都市計画審議会を傍で聴きにいった。
何度目だろう。
いつも、げんなりして島へ帰るばかりだ。
ところが、今回は初めてぅふぅ(大)満足して船に乗った。
いや、正確に言えば、年に1回、去年まで4回通った「PET検査」からの帰り船以来か。
※
ビールがごくウマ!
満天の むれぃぶし(群星)!
南へ!風と波〜♪〜南へ!
「おがみ山トンネル(150億円)変更案」の審議の結果(見出しだけ)。
↓
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
奄美新聞(9/5付)
↓
おがみやまルート
県都計審議会
「合意形成が不十分」
計画再検討も視野に
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
南海日日新聞((9/5付)
↓
おがみ山バイパスルート変更案
県都市計画審
次回以降に結論先送り
末広・港土地区画整理事業 変更意見書は不採択
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ 「継続は力なり!」
保守系は、懲りずにムダな事業を推進してきた。
逆もまた真!
我々は見直しの反対運動を継続してきた。
(^ム^)
次は、中心商店街のムダな都市計画(100億円)だ。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜77)
9/8(ぅまち=火)旧7/20(火の兄 辰)
こ(子)読み
|
▼ >一方で、トカラ⇔アマミ⇔オキナワをつなぐ海路はあるが、ヒト・モノ・コトの流通は非日常的だ。
>幾重にも分断されていく久しい。
おととい(9/6)、こんなことを書きこんだ。
付け加えると、「三島、タネ、ヤクなどとはとざされたまま」
船ではなく、空路の輸送のことが、今日(9/8)の南海日日新聞のスミに載っている。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
那覇と奄美結ぶ2路線とも減少
RAC8月郵送実績
琉球エアーコミューター(RAC)は7日、8月の輸送実績(速報値)を発表した。
与論ー那覇の旅客数は前年同期比18・8%減の6127人で、利用率は59・9%。貨物輸送は前年同期比11・2%減の1dだった。奄美ー那覇の旅客数は前年同期比16・1%の減の1544人で、利用率は65・4%。貨物輸送は前年同期比0・6%減の8dだった。
RAC全路線の月間旅客数は前年同月比9・1%減の2万5708人。台風8号の影響により全路線で54便が欠航し、1300人に影響が出た。 |
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ 8月といえば、旅客数の書き入れどきだ。
与論ー那覇間は、一日約200人。
奄美ー那覇間は、一日約50人。
与論の場合、奄美(空港)の約4倍もの利用客数がある。
おそらく那覇との往復がほとんどで、島伝いに北上するのは船便だろう。
しかし、貨物輸送は奄美の8d分の1d(12・5%)と意外と少ない。
ヒトは動くが、モノは動いていない。
これも、船便が主になっているからだろう。
コトはどうなんだろうか。
また、海路の動態はどうなってるんだろうか。
人数やトン数よりも、動いた金額(出入)の内容や全体像がほしいものだ。
▼ 「奄美の各島々の域内収支」をパッと見てみたい。
誰か(教えて)!
『
奄美群島の概況』(鹿児島県大島支庁編)では分からない。
大島支庁の総務・企画課に問い合わせた。
「日本の自治体ではどこもそういう統計はありません」
とのこと。
ぬがよ〜?!
「奄美の各島々の自給率」を調べたときにも同じカベでとざされた。
でも、
皆村武一さんは奄美全体での域内収支を出していたはず。
出ないはずはない。
出さないだけだ。
出すべきだ。
※ PS(9/10):鹿児島県の統計課に問い合わせた。
このような
産業連関表はあるそうだ。
鹿児島県の平成12年の県際収支は、6059億円の赤字だ。
それも、5年に1回、国から降りてくる数字という。
市町村レベルでは集計していない・・・の?
なんか変だ。
自給率などの計算式は聞いたが、これを島ごとに出せないものか・・・
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜76)
9/7(てぃき)旧7/19(木の弟 卯)
こ(子)読み
|
▼ 9/3(木)の記者会見が、7紙に載っていた。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
9/4付、南海日日新聞から。
郷土教育充実で陳情書
奄美各市町村に「三七の会」
奄美市名瀬の「三七(みな)の会」(薗博明主宰)は3日、県大島支庁で会見し、奄美の各市町村に郷土教育などに関する陳述書を提出したと報告した。奄美独自の伝統文化の独自性や重要性を分かりやすく地域の住民に教えることなどを要望している。
陳情は@環境教育A郷土教育B歴史教育ーの3項目。趣旨として「世界に誇れる奄美の輝かしい宝は、それぞれの母なるシマが生んでくれた。シマの遺産を学習し、継承、発展させることが重要で、学校教育と社会教育が連携し、郷土教育のさらなる充実を図るための取り組みが必要」と説明している。
会見で薗主宰らは「ことしは島津が奄美・琉球に侵攻してから400年目の節目。この年に何らかの動きをしたかった」とした上で、「奄美がたどった歴史の教育がなされていない。行政も含めて地元の人たちにももっと知ってもらいたい」などと語った。
また、薗主宰らは文化教育について「積極的な指導者もいて、点としての動きはあるが、線となるような系統的な取り組みを」と要望。環境教育については「先人たちが環境とどうかかわってきたかという点が(教育に)欠けている」などと指摘した。 |
|
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
9/4付、奄美新聞から。
郷土教育の充実を
三七の会
市議会に陳情書
奄美市の民間団体「三七の会」(薗博明主宰)は3日、郷土教育に関する陳情書を奄美群島の全市町村議会に提出した。
陳情書では@環境教育A郷土教育B歴史教育の3点をあげ、奄美各地の学校教育と社会教育が連携し、「奄美の宝」を継承・発展させる郷土教育の充実を求めた。
環境教育では世界自然遺産の候補地でありながら、住民への周知不足を指摘し、ブックレットやDVDなど教材の活用を要望。また、シマグチ、シマウタ、シマ踊りなど無形文化財の継承や、各市町村誌のダイジェスト版(副読本)作成などによる住民への歴史教育の必要性を訴えた。
県大島支庁記者クラブで同日あった会見で薗さんは「9月議会に合わせて要望書を提出した。シマの人が奄美の歴史を知らないことが多い。今、何かをしないと奄美のすばらしい遺産が歴史の中に消えてしまう。学校の教育課程の中で、系統だった取り組みをしてほしい」と話した。 |
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ この件、8/30に報告ずみなので、コメントは省きます。
各自治体が採択するかどうか、それがモンダイ。
その結果を受けて、12月議会にはいくつかの会や団体と連名で第二弾を提出の予定。
要望する内容をもっと具体的に詰めていきたい。
鹿児島県へも、同様な手順になりそうだ、今のところ。
県の教育委員会には「意見書」などを考えている。
とにかく、最初の一歩だ。
「世紀の2009年!」
無駄にせず、来年からも毎年、確実につないでいこうぜ。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜75)
9/6(てぃだ)旧7/18(木の兄 寅)
こ(子)読み
|
▼ 9/3(木)の盆の送り(旧7/15)のあと、鹿児島行きの「クイーンコーラルプラス」に乗船した。
今年の5月、徳之島と沖永良部島をそれぞれ往復したときにも縁があった、
マリックスライン(株)(旧照国海運)の新造船だ。
旧盆の帰り道だろう、結構、こんでいた。
奄美と鹿児島をつなぐ海の道は、長距離バスだ、日常の足。
奄美が本社の
マルエーフェリー(株)(旧大島運輸)などは、売上高はなんと115億円もある。
東京、阪神、鹿児島と沖縄を結ぶ航路や奄美諸島内の航路を一手に運営しているからだ。
また、創業者の
有村治峯さん(与論島出身、故人)は日本でも有数の海運王で多角的な企業経営者(年商300億円!)。
一方で、トカラ⇔アマミ⇔沖縄をつなぐ海路はあるが、ヒト・モノ・コトの流通は非日常的だ。
幾重にも分断されていく久しい。
徳川政権の鎖国策と同じく、薩摩藩と鹿児島県による「南島」の分断統治が続いているからだ。
しかし、島々を結ぶ手立ては待っていても始まらない。
それぞれで、リュウキュウコのつながり方を検証し、失われた「しまの回路(海路)」を再生したい。
そのためには、やはり、1609年を軸として、シマ島の現在をテコに、未来をひらいていくしかないだろう。
▼7月15夜の満月を海上で拝んだ。
翌朝(9/4)の4時半頃だ。
屋久島と口永良部島の間を通った頃に目覚め、幅21mの甲板で「夜明けの独り月夜」を堪能した。
口永良部島の北西の海上に、7月の望月が煌々と黄色い太陽のように光輝き、やがて西のアマ(海)へ飛びこんでいった。
と、やがて、今度は種子島と佐多岬の間から朝陽がアマ(天)の
東雲のアガリ(東)からアマ(海)を深紅に染め始めた。
59年間生きてきて、こんな光景は初めて。
いかに
「夜明けの月と海と太陽」に縁のない人生だったかのア・カ・シ。
一期一会の見納めか。
あすの朝は06時ごろ日の出と月の入りが同時に見れそうだ。
奄美大島で見れる場所は?
笠利町は用(シマ)岬の灯台あたりだろうか?
与謝蕪村のウタ、「菜の花や 月は東に 日は西に」
満月の朝、正反対のコスモロジー、海の夢かな船酔いか。
そこで、こりない、おんちな、ワン ソング!
※ てぃきぃ(月)海ちぃ入りぃ(西)
てぃだぁ(太陽)ぬぅ上がりぃ(東)どぉ
ぶん(盆)ぬぅシカマァ(朝)
※ 360度のまんまる
アマミゾ(水平線)
月と太陽のまんなかなんてぃ
思わずジャンプ!
59度目の盆の朝
(^ム^)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜74)
9/2(みず)旧7/14(火の兄 戌)
こ(子)読み
|
▼きのうは、盆の入りで、親がなし(先祖)を迎えにいった。
夏休みのあとなので、墓地参道のいつもの賑わいはなく、トゥディナサン(さびしい)感じ。
きょうは盆の中日。
カミさんの実家へ。
恒例の
三献(さんごん)が格別で、くゎっき(ご馳走、儲け)ありょうたぁ。
あす(木)の夕方は、大島支庁の記者クラブで会見。
「郷土教育に関する陳情書」提出の趣旨説明と今後の取り組みについて。
そのあと、うやがなしを送って、夜は鹿児島行きの船に乗る。
あさっての9月4日(金)、「鹿児島県都市計画審議会」の傍聴。
「末広・港土地区画整理事業計画」と「おがみ山トンネル計画」の変更案に関する審議がある。
委員たちの審議内容をウォッチしたあと、関係者と今後の取り組み方の話し合い。
また、鹿児島で10月3日にある「1609年から400年祭」(?)の関係者たちとも。
その晩には乗船、9月5日(土)早朝、シマに戻る。
鹿児島行きも最近は年に1、2回くらいのペースになってしまった。
沖縄は数年に1回。
関西、関東などにはもう7年以上も行けてない。
トカラにはここ数年で3回ほど通ったが。
出〜る〜に〜出れ〜な〜い〜しまの〜鳥〜だが、ホントはあまり出る気がないのだ。
カネもないが、行きたいところもなくなったからだろう。
もう、タビの終わりの季節?。
鹿児島県当局へ奄美との歴史認識を問うきっかけ作りくらいが、ワンの最期の仕事か。
トゥディナサやぁ〜、ボンのネタ。
(^ム^)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜73)
8/30(ひ)旧7/11(火の弟 羊)
こ(子)読み
|
▼ 今日は大安、衆議院の投票日。
鹿児島2区の奄美では、地元(徳之島)の徳田毅(自民党)と指宿(山川)出身の打越明司(民主党)の決戦。
小選挙区制の比例代表制のおかげで結局は二人とも当選の予定という。
「地元から代議士を!」か「政権選択を!」の選択肢なんだが、どちらも仲良く通るのだから奄美の人にとってはいいのだろう。
奄美群島は日本復帰後、日本唯一の「小選挙区地区」が続き、伝説的な選挙風土を生み出してきた。
それが、全国が小選挙区制になったと思ったら、逆に候補者二人が通るのだから、まるで「奄美初の中選挙区制」の恩恵のようだ。
中選挙区制のほうがいい!と言う理由はこの辺にあるのだろう。
候補者は「地元」、比例は「野党」の願いが一挙両得になったのだから。
でも、大きく違うのは、アマシンを牛耳っていた自民党が多分、野党に下ること。
これから既成勢力の発言力の低下は必死だ。
潮目が変わり、これまでの道路、港湾優先の予算編成は通りにくくなる。
積年の反自民!反田中!から自民党公認にシフト(転向)したばかりの徳田一派。
結局は大いなるKYであり、それが奄美を二分した自由連合の本質だった、ことが露呈した。
スローガンは、「奄美はひとつ!」だが
?!?!
▼ 政権交代のあとの奄美に、はて、どのような変化が起こるのだろうか?
いや、起こすことができるのか?
ヒトやトウに一応は期待するが幻想はしない。
それよりも、節目の2009年にワンになにができるのか?
それぞれが、なにができるのか、自分という「しま」とのかかわりかたに。
とりあえずの第一弾として次のような陳情書を奄美の12の自治体の各議会に送ることにした。
議会に諮るかどうかは、各議会運営委員会(文教厚生委員会)で決める。
議会よりも早く開かれるので、昨夜、一夜漬けで作成し、薗博明さんと相談。
今日、とりあえず瀬戸内町と天城町の議会議長宛に投函した。
奄美の自治体には「環境・郷土・歴史教育の取り組みを!」という婉曲な表現にとどめた。
多分、第二波、第三波と、もんでいくからだ。
県議会には、鹿児島県と奄美圏の歴史認識をきびしく問う内容にするつもり。
でも、それでは100%採択されないだろう。
(やはり、ひねるしかないか。)
受付の締めきりは、9月10日。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
郷土教育に関する陳情書
平成21年8月30日
瀬戸内町議会議長
堯 文俊 様
陳情者 鹿児島県奄美市名瀬長浜町25−5
「三七の会」 主宰 薗 博明 (印)
090−5088−3676
1 〔趣旨〕
2009年の奄美は、「皆既日食」のおかげで国内外にその名を発信することができました。また、今年は島津藩が奄美・琉球を侵略・侵攻してから400年を迎えます。この大きな節目の年を契機として、奄美の過去と現在を確認し、未来への明るい奄美像を描いていきたいものです。
日本と世界に誇れる奄美の輝かしい宝は、それぞれの母なるシマが生み育ててくれました。ですから、今後はそれぞれのシマの遺産(自然・文化・歴史など)を学習し、継承、発展させていくことが重要だと思います。そのために、奄美各地の学校教育と社会教育が連携して、それぞれの郷土教育のさらなる充実を図るための取り組みが必要であると考え、ここに陳情いたします。
2 〔陳情項目〕
(1)奄美の環境教育について。
奄美固有の自然、多様な生態系、先人たちの係わり方などを、わかりやすく住民に教えてください。
(2) 奄美の郷土教育について。
奄美独自の伝統文化の特徴や重要性を、わかりやすく地域の住民に教えてください。
(3)奄美の歴史教育について。
類を見ない奄美の複雑な歴史を、わかりやすく地域の住民に教えてください。
3 〔陳情の理由〕
(1)奄美の環境教育
なぜ、奄美が「世界自然遺産」の候補地となっているのか、また、ユネスコから評価・認定されるためには行政と住民は何をしたらいいのか、してはいけないのか、ということなどが住民には周知されていません。たとえば、ブックレットやDVDなどの教材で具体的に解説し、体験させる必要があると思います。
(2)奄美の郷土教育
奄美のシマ島には重要な無形文化財が数多くあります。これらの伝統文化は継ぎ手がいなくなればやがて滅んでしまいます。実際、ユネスコは2009年2月19日、「シマグチ」は日本語の方言ではなく、国際的な基準では独立した「奄美語」であり、「消滅の危険」にあると発表しました。各地の「シマグチ、シマ唄、シマ踊り、シマ行事」などを守るための教育は特に急を要する課題だと思います。奄美の教育界では、戦前から復帰後にもシマ口の使用を禁止してきた責任があるからです。
(3)奄美の歴史教育
奄美群島はなぜ鹿児島県の行政管理化にあるのか、いつからそうなっているのか、その間、奄美ではどのようなことがあったのか、1609年以前の歴史も含めて、奄美の出身者たちは、ほとんど知りません。奄美の歴史教育というものが全くなかったからです。瀬戸内町におかれては、『瀬戸内町誌』のダイジェスト版(副読本)などを分かりやすく作成して地域住民に広報することも必要と考えるからです。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼一夜漬けであり、他の市町村へはもう少し時間があるので、修正がでてくるかと思われます。
でも、基本的には変わらないでしょう。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜72)
8/25(ひ)旧7/6(水の兄 寅)
こ(子)読み
|
▼ナゼの聖なる拝み山に、トンネルを掘る。
コンパクトな末広町のまちなみ(中心商店街)をぶっこわして、車のために広い道路を通す。
せっかく造った名瀬旧港を埋め立てて、パチンコ屋や大型店などの利益に供する。
しめて、約280億円、これはアマシンの一年間の予算と同額だ。
しかし、これらの事業はアマシンのホンの一部でしかない。
そのほか、あちこちの山あいの上流には隠れるように造成されている「砂防ダム」。
山中、山間を網の目状に縫っている「林道」や「トンネル」。
各事業の名目は、「弱者救済」のための「治山治水」や「産業育成」だ。(?)
サンゴ礁の海はどうだろうか?
まず、各シマ々のアダンの浜辺には護岸提が100%近く造られた。
わずかな船しかいないのに、どこのシマにも立派な漁港、護岸・防波堤、離岸提などがセットになっている。
環境破壊、このうえもない。
「アマミを世界自然遺産へ!」と標榜している鹿児島県の環境施策がいったいどこにあるのか?
それでも毎年、300億円近くのひも付き公共事業費(アメ=アマシン)が、クニ(天)からケン(雲)を通してシマ(地や海)へ降ってくる。
使用目的は、半世紀たった今でも「産業基盤(インフラ)整備」にしか使えない。
これは、天や雲のための、ODAと同じ、ブーメラン産業だ。
事業費のほとんどは、また、地や海(しま)から雲や天(県や国)に還っていくのだから。
そのためにこそ官僚たちの天下りシステムはある。
基礎自治体の職員と政治家たちはそのための猿田彦(シマ役人)。
400年間うちつづく支配の構造。
過剰なコンクリート事業は黙っていたら波のようにいつまでも押し寄せる。
リーフを超え、イノーから山河のいただきまで、コンクリートの津波はたえまない。
なぁ いいかげん、止むぃてぃくれぃ!
住民に説明もしないで、勝手に造るな!
我々の税金で借金までして!
アマミでは、いくつかの阻止運動があったし、今でもタマにある。
声を上げにくいがんじがらめのシマ環境の中で、「環境ネットワーク奄美」にも相談がくる。
しかし、地元のシマで誰かが「覚悟して」主張しなければ運動は始まらないし、挫折する。
風見鶏の役人・政治家や島内外の業界・知識人たちは自分たちのソロバンだけ。
そんなシマの浮世だが、最近の嬉しいニュースを紹介する。
これは、地元の「イショ(磯)シャ」(漁師)たちが「スットグレッ!」(ナニクソ!)と立ち上がった結果だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
南海日日新聞(6月23日付)
大棚の沖防波堤断念へ
大和村、事業取り下げに
地元反対運動受け判断
◆大和村は、大和港大棚地区(旧大棚港)に沖防波堤の整備を計画していたが、22日開会した村議会6月定例会の議案審議の中で、整備計画を断念する意向を明らかにした。村当局は「計画に対して反対運動が起こり、事業推進は難しいと判断している。まだ国の決定は出ておらず、最終決定はないが、事業を取り下げることになると思う」との見通しを示した。
村建設課によると、大和港大棚地区護岸(防波)は、2008年度から始まり、延長100bの沖防波堤や物揚げ上設置、護岸改良(護岸かさ上げ、消波ブロック設置)を計画。総事業費8億5000万円、うち沖防波堤事業費は約7億円。沖防波堤は港口の沖に消波ブロックを設置して港内の静穏度を高める目的で計画し、事業期間は10〜14年度となっていた。
計画に対し、港を利用している大棚港動力船組合(松崎勝彦組合長)は今年3月、「沖防波堤の整備計画反対要望書」を永田武光村長に提出した。この中で@3月の工事内容説明会で、組合が要望していない沖防波堤計画が村側から示された。事前説明もなく、利用者の要望を無視した計画。B(組合員で)沖防波堤について検討した結果、整備によって船の出入港に支障が生じ、潮流の変化なども懸念されることから計画には反対ーなどと主張した。
永田村長は「長年の懸案事項であり、地元の要望もあって計画を推進してきた。住民の意向を踏まえて粘り強く進め、ようやく実現できる可能性が出てきたが、地元から逆の要望(反対運動)が出てきた」と述べ、計画断念はやむを得ないとの考えを示した。中島秋彦建設課長は、「旧大棚港の事業は完了し、その後の整備は難しいと考えていた。しかし、統合して大和港大棚地区となり、整備が可能となって計画推進してきたが、残念」と話した。
動力組合の松崎組合長は「組合員が知らない中で(要望していない)沖防波堤の計画が出てきた。出入港に支障が出ると主張してきた。村側は漁業者や関係者と話し合って必要なものを整備してほしい」と話した。
|
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▼いつも、どこも、こんな調子だ。
行政の言い分がホントか、組合員(住民)の主張がホントか。
いやというほど行政の嘘八百を見聞きしてきた。
役場の中の懲りない面々(含む政治家)はどこも金太郎飴。
島役(人)たちに声を上げることからしか「しまぬゆ」は始まらない。
いや、行政が手続きを進めるそのつど、声を上げ続けなければ敗北する。
その中から、カネ(税金)の流れや、事業決定のためのうさんくさいシステムが見えてくる。
泣き寝入りは400年間のDNAか。
それでいいのか?
まずは、「政官交代!」。
政治家と官僚の力学やシステムにメスを入れ、ハダカにする。
そこから、民(しま)の世の「生活選択!」が始まる。
それぞれの地域の「しま(民)の世」を現代版に再生し、再構築し、お互いにつながっていきたい。
官治から民治へ!
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜71)
8/23(ひ)旧7/4(火の兄 子)
こ(子)読み
|
▼きのう(8/22)は、定例の「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」(第6回)。
講 師;三上絢子さん(東京奄美会、法政大学沖縄文化研究所研究員)
テーマ:米軍政下の北緯30度線ー口之島を拠点としてー
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
南海日日新聞(8/23)から。
密貿易の実態に迫る
米軍政下の口之島舞台に
三上氏が講演
◆ (略)地元青年団が中心的な役割を果たし、島に経済的な豊かさをもたらしたと報告した上で「交易回路を絶たれた奄美の人々が生きるために命懸けで果たしたもの」と強調した。
日本本土と行政分離された1946年、北緯30度上にあった口之島は国境線の最北端として密貿易が盛んに。三上氏は@奄美側は必需品など極端な物資不足にあった。A本土側は需要の高い黒砂糖を求めたーことから戦略的な交易だったとし、「財をなすためではなく、島民の生活を支える重要な役割を果たした」と背景を説明した。
口之島では多い日で10そうもの船が警備の目をかいくぐって夜間に入港。作業に従事した地元青年団は組合組織化され、4パターンからなるシステムを展開した。密貿易関係者の居住増で西之浜集落が新たに形成されるなど、「闇商人とのかかわりが島の経済を急激に豊かにした」と語った。
|
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼一番興味深かったのは、当時の写真(カラー!)。
南日本新聞社の記者が復帰前に密航して撮ったもの。
復帰後の特集号で掲載されたものを、三上さんが最近、国立国会図書館で検索。
南日本新聞社と掛け合って、学術論文のためということで掲載の許可をえたと言う。
沖あいに浮かぶ大小の闇船、浜辺の多くの伝馬船、闇商人たちの倉庫やカヤブキの住居などが生々しく切り撮られていた。
復帰前の奄美諸島の写真はいくつか見たことはあるが、トカラ(十島)のそれは初見だったので興奮した。
そうか、ワンが産まれたころ、ワンの親父はこういう風景を泳ぎ、歩いていたのか。
当時、密貿易で検挙されて、あらかたの物品や財産を没収されたと聞いている。
仕立て屋の親父は、アメリカ軍の払い下げの
HTB(軍服)を仕立て直す仕事でワキャ子ども4人を育てていた。
その後、復帰してからは、洋裁学校をやっていた。
若い頃、大阪で修行したらしい。
明治からの戦前、在日中国人の仕事と言えば、「三刀(調理、仕立て、理容)」&クリーニングと相場が決まっていたらしい。
日本だけではなく、外国でもそうらしい。
明治生まれのワンの親父は関西で「仕立て」を、大正生まれのカミさんの父親は関東で「クリーニング」(のちには外国航路の商船で「コック」)の職についてきた。
東アジアの近代化の過程で、「日本国」に食を求めてきた華僑と奄美の先人たちの職(食)業が重なっていたことを知ったのは最近だ。
この件については、また何かのときにリンクしたい。
▼講座の終了後、薗博明さんからもうひとつ面白い(貴重な)資料をいただいた。
現在の高校の歴史教科書の年表には、「小笠原と沖縄」の日本への「返還と復帰」の項はあるが、「トカラとアマミの復帰」はない。
編者たちは、「トカラ・アマミの復帰(観)」を、「日本国への復帰」と言うより、せいぜい「鹿児島県への復帰」くらいに軽く観ているのか?
▼また、これは10年ほど前に気づいたのだが、『十島村誌資料編T−年表及び追記』(平成8年)には、「トカラの復帰(1952年)」の翌年にあった「奄美の復帰」が掲載されていない。
トカラとアマミの島々は、明治以降、大島郡として同じ行政圏にくくられた時期が相当に長い。
しかし、この1952年に分断されて、隔ての海は今も続いている。
ヨロンとヤンバルのトカラ版、と言っていいのだろうか。
「トカラの日本復帰」の内実については、ワンも盲目だ。
「トカラとアマミ」と「オガサハラとオキナワ」。
日本列島の「島」々は日本「国」のなんなのだ?
たとえば、「北方領土」や「尖閣諸島」などは本来、「日本国固有の領土」などではないのと同質のテーマだが。
それにしても、クニの『教科書』やシマの『村誌』の編集者たちのまなざしは、現在も「アマミの削除」で表現されている。
その意味を問うこと、ワンには重い。
▼では、アマミの人たち自身の復帰運動に対する歴史認識はどうなんだろう?
いまだにアマミの復帰運動(史観)は、「異民族からのヤマト民族解放(→日の丸&君が代)闘争勝利、万歳(史観)!」どまりだが、もう少し客観的に押さえるべきだ。
戦後世界体制の大国ゲームの中で、トカラ、アマミの復帰はアメリカのカードとして切られたのだから。
なぜ、切ったのか。
それを問うこと無しに、復帰の総括は未完のままだ。
カゴシマやニホンは、トカラやアマミの歴史と文化をどう位置づけているのか?
ましてや、1,609年から現在までの位置づけなど、序奏の始まり。
いや、視野にもはいってない。
さらにましてや、1,609年以前のリュウキュウコの世界などは、闇の中。
ひたすらヤマトの版図内に取りこもうとする言論ばかりだ。
エミシやエゾやアイヌへの歴史認識と重なるようにして。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜70)
8/21(かね)旧7/1(土の兄 戌)
こ(子)読み
|
▼ きのうの「おがみ山トンネル」説明会の関連ネタを。。
今年の4月26日、
「おがみ山トンネル(ルート&予算)変更に伴う公聴会」(於:名瀬中央公民館)があり、10分間しゃべった。
参考のため、その内容を以下に記します。
年中、こんなことばかりだが・・・・・・
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
「拝み山トンネル(バイパス)の変更に伴う公聴会」
二〇〇九年四月二十六日
奄美市名瀬末広町七―十一
森本眞一郎(自営業)
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
佐大熊町の森本です。
末広町の商店街で商いをやってます。
結論から先に述べておきます。
一つ。私は、拝み山トンネルの変更案には反対です。
二つ。反対の理由です。この変更案は奄美にとって、百害はあっても一理もない事業だからです。
三つ。変更案の代案として、「拝み山トンネルの廃止に伴う定額給付金化」を提案いたします。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
はじめに、名瀬の中心市街地で進行中の「名瀬都市計画」と「本トンネル計画」について考えてみます。
両計画の目的は、名瀬の中心市街地に、良好な交通アクセスを確保するためだそうですが、当局が謳っている「良好な交通アクセス」とはなんのことでしょうか?
現在、名瀬の中心市街地への交通アクセスに不便を感じている人々や、「拝み山トンネル」がないと困るという方々が奄美に実際にいるのでしょうか?いないでしょう。
ルート変更は、何が何でも「拝み山トンネル」に百四十億円、「中心市街地の都市計画」に百億円、「名瀬旧港の埋め立て」に三十億円、完成した「和光トンネル」の百三十億円、あわせて四百億円の道路予算を消化しようという本音が見え見えの計画変更です。
ですから、当局が言う「良好な交通アクセス」とは、「政官業のみなさんのための道づくり」であり、決して「住民のためのまちづくり」ではありません。
最近は、公共工事の費用対効果が、厳しく問われることになりました。
当然のことで、遅すぎるくらいです。
こんな小さな町の道づくりに四百億円もかけて、元が取れるわけがありません。
たとえば、末広・港の区画整理事業は総額で百億円ですが、幅十六bの道路を造るための費用はわずか二億円、測候所跡地の公園などは、三百万円でできるのです。
残りの大方は、区域内住民への再築補償費です。
その補償費で、建設業などの仕事が新たに生まれるわけです。
雨漏りする家を、金もないのにわざわざ借金までしてきて、ぶちこわし、新築の家を建てようとしているのです。ばかげています。今の時代、リフォームでいいではないですか。
商店街への駐車場なら現状でこと足りています。
空き店舗を有効に利用して、トイレや休憩所やイベントホールなどソフトと知恵を多様に出していけば、百億円もの大金はいりません。
同時に、わざわざ百四十億円もかけて、造ろうとしている拝み山トンネルも同じようなハード思考で、話になりません。
新川沿いの道路を少し拡幅すれば、すむことです。
いったい、なにを血迷っているのですか?
だれのためにやっているのですか?
いつまでも、道路や橋、港などの大型公共事業だけを呼び込むゼネコン本位の時代はもう終わったのです。
これからは、「少子高齢化対策」です。介護施設の充実など、医療・福祉に関するインフラの整備を進めていくことが望まれているのです。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
本論にはいります。
私は、奄美市の「都市計画」と、鹿児島県の「拝み山トンネル計画」の一体化計画を七年前に気づき、関ってきました。
その理由は、この二つの計画が実行されたら、家族やスタッフたちが暮らせなくなるからです。
私は、当局の計画の目的や真意を問いただしてきました。
しかし、事業目的の根拠が曖昧になってくると、当局は、次のカードを出してくるので、結局、いたちごっこです。
「拝み山トンネル」の場合もそうです。
当初、事業の目的は、「古見本通りの渋滞解消」と「中心市街地へのアクセス」の二つでした。一昨年、「見直しのための検討委員会」の決定がなされてからは、「渋滞」が消えて「混雑」という表現に変わりました。
私は古見本通りで通勤時間の通過時間をなんども計り、ここは「渋滞」ではないことを意見陳述で主張したからです。
また、計画当初はなかった「久里・古田地区の急傾斜危険地区の防災面から」とか、「消防車もはいれない密集住宅のため」などという新手の理由が、いきなり登場してきたのでした。
しかし、これもルートが拝み山の全線トンネル案に決定した途端に消え去り、今は「世界自然遺産に伴う配田が丘の自然と環境の保全のため」などという取って付けた理由に変わっていきました。まるで「うそ八百」のカメレオン族です。
つまり、毎年、アマシンで落とされる膨大な公共工事の予算を消化すること、それだけが、当局の唯一の仕事だと実感したのでした。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
そろそろ、しめにはいります。
奄美群島には無駄な公共工事が目立ちます。なぜでしょうか?
もちろん、国の特別措置法のアマシンがあるからですが、実は県と市町村内部に本質的な原因があるのだと思います。
たとえば、「拝み山トンネル」と「名瀬都市計画」の一体化事業ですが、奄美の住民のだれがいつこんなばかげた計画を要望したのか、当局は証拠を出せないはずです。
なぜなら、当局は、自分たちの食い扶持のためにデスクで事業計画を作成した後、行政の息のかかった民間の機関におろしていくマニュアル通りだからです。
きょうの「公聴会」も、政府へ申請するためのアリバイ作りのためでしかありません。国もそれは承知の輔。いわば、みんなヤラセです。
国と県と自治体の三者がグルになって、うそ八百で固めた、八百長のできレース。それに対して、我々住民は声を上げてこなかった。だから、今頃、そのツケが八百兆円にもなって我々納税者に、突きつけられているのです。
どうやら、キーワードは八百という数字かもしれません。
うそ八百のヤオチョウで、溜まりに溜まった八百兆円。
さっき、公共工事は彼らの食い扶持のためにあると申しました。
鹿児島県の職員の所得は、平均四十三、七歳で、五百七十六万五千四百円です。
奄美市の職員は、それより多く、平均四十五、四歳で五百九十二万六千円です。
四十四歳前後でそれぞれ六百万円近い年収です。
奄美市の場合、税収など自主財源の八割近くは職員たちの給料に使われているのです。これでは財政が赤字になっても当然です。
ちなみに、我々奄美郡島民の所得はといえば、平成十九年度は、百九十七万円です。公務員組の三分の一、逆に言うと我々のために働くべき公務員たちは、我々の三倍のメシを食っているのです。
怒りもさることながら、自分自身が情けなくなります。
我々が選んできた首長や、行政のチェックマンであるべき議員たちはこのような状況を知りながら黙認しているわけです。
我々、日本国民が抱えている八百兆円の借金と同じく、その責任は、政官業の八百長劇を見抜けずにやり過ごしてきた、我々自身が今、問われているのかもしれません。
国民以上の政府はありえません。
県民以上の県政もありえません。
そして、市民以上の市政もありえないからです。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
最後に、荒唐無稽な提案を二ついたします。
奄美大島は、トンネルだらけです。
面積率でいったら世界一かもしれません。
現在、我々の税金で、定額給付金が始まっています。
そこで、無用の長物「拝み山トンネルの変更」を、住民投票で廃案に追い込み、その予算を、「拝み山給付金」に変更するのです。
年齢に関係なく、奄美市の人口で均等割りします。一人当たり約三十万円にもなるのです。
二つ目は、国はアマシンによる公共事業費を二兆円以上も投じてきました。
ある人は、奄美の地元に落ちる金額は十七lだと言ってました。残りの八十三lは、鹿児島県やゼネコンなどに持っていかれるそうです。
将来、鹿児島県が、本気で奄美の世界自然遺産を目指すというのなら、もうこれ以上奄美の貴重な自然に、手をつけてはなりません。
そこで、住民投票をして、「アマシンを自然と文化のシマ遺産のために活用する定額給付金」に切り替えるのです。
今年度のアマシンの公共事業費は、二百八十二億円です。
これを奄美群島の全人口で割ります。一人あたり二十三万三千円を受け取るのです。
これを、それぞれのシマの自然と、伝統文化を学ぶために「アマシン給付金」として支給するのです。
いかがでしょうか?
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今年は、奄美が鹿児島県に復帰して五十六年目。
また、今年は薩摩軍が奄美に侵略してきて四百年です。
奄美の私たちは、いつまで、外からの植民地支配に甘んじていくのでしょうか?
復帰運動の泉芳朗さん、アマミ人は「本当の日本人」になれたのでしょうか?
笠利町シチロで大和人と戦った先祖がなし、なきゃや、なま(現在)の奄美の姿をどうみているのでしょうか?
将来の奄美のあり方を、拝み山トンネル(防空壕)からではなく、いただきから共に考えてみませんか。
終わります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この「公聴会」や、「末広・港土地区画整理事業説明会」の模様を報告しているブログがある。
「新生大島新聞」。
このブログは、奄美(市)の政治状況を告発している稀有なブログだ。
「お気に入り」にお薦めです。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜69)
8/19(みず)旧6/29(火の弟 申)
こ(子)読み
|
▼約10日間のオフ。
毎日、いろいろある(おこる)けど、ここにとりあげるのが時々億劫になる。
書くことの意味とカタルシスについて考えると、つらくなるのだ。
それでもきのう(8/18)の奄美新聞から、がんばってひとつ。
この記事にはじめから今も深く関わっている一人として。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
計画変更、見直しを!
おがみ山トンネル
地域住民が知事に要請書
◆県大島支庁のおがみ山トンネル工事の説明会が16日、奄美市名瀬久里町であった。トンネル工事によるがけ崩れなどの被害を懸念する住民側と、住民の不安をやわらげたい県職員側両方の申し出で、実施されたもの。しかし、事業計画の進行を前提とした県の説明に対し、計画の見直しや中止を求める声が相次いだ、
説明会は市民約30人が出席。県大島支庁の関係課職員6人が説明にあたった。
おがみ山バイパス事業は08年2月、検討委員会の報告を受けルート変更を決定、配田が丘を切り崩す当初案から、真名津町と末広町を結ぶ全線トンネル化を決めた。2月に変更案の説明会、6〜7月に計画変更案の縦覧を実施するとともに、地質調査や設計なども進めてきた。
住民側は、@生活用水としても活用する久里川が枯渇する可能性や、これに伴う災害の危険A工事中、山すそにある住宅が、がけ崩れの危険にさらされることーなどを懸念。
これに対し、県道路建設係は、地質調査結果や掘削法など、安全性への配慮を中心に説明したが、質問に窮する場面もあり、、不満が爆発。「トンネルは住民生活に影響がない位置に変更してくれ」「住民全員の不安を解消してから、事業計画を進めるべき」など、事業計画自体の中止や見直しを求める要望が相次いだ。
説明会後、住民の代表者が、説明に当たった県の職員に対し、伊藤祐一郎知事あての、「トンネル工事計画の変更もしく見直しを求める要望書」を提出した。 |
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▼7、5年前、「末広・港土地区画整理事業(約100億円)」を知って、「まちなみを守る会」を立ち上げた。
都市計画によってワンの「あまみ庵」も追放されると言う。
32メートルの道路を商店街のど真ん中に通すという、狂喜の沙汰のばらまき事業である。
同時期、「おがみ山トンネル計画(165億円)」も初めて知った。
商店街の道路と結ぶためのトンネル事業だ
老人世帯が多いこの区域内の住民たちにはなんとその計画内容がほとんど知らされていなかった。
自分たちの住居が近く立ち退きになるというのに、だ。
公共工事が始まってきて初めて、住民はそのことを知るというのがアマシン事業の大半である。
毎年、あちこちのシマ島で、住民不在のアマシン公共事業が施工されている。
立ち退きの事実を知った住民らとともに「おがみ山トンネルを考える会」をしばらくして立ち上げた(2002年)。
その結果、反対住民の必死の声を県は無視できず、昨年、ルートが変更になった。
それでも、住民の合意形成は得られない。
ルートは変更にはなったが、この時代に150億円もの巨費を投じて解消する「交通渋滞」や「費用対効果」などはまったくないからだ。
毎年度の予算を消化するため、しま(シマ&島&鹿児島&霞が島)の役人たちによる役人のためのお役所事業(アマシン)だからだ。
この秋(9月4日)には、県の都市計画審議委員会で事業計画が(おそらく)決定され、年度内には工事続行の予定だ。
▼おもえば、このような住民運動を奄美に帰って20年近くもこりずにやってきた。
だれのためか?と問われれば、ワンのしまぬゆのため。
勝敗などはいつも現在進行形、途中経過でしかないから辛抱強く続けるだけ。
そんなことより、ワンの合点する「しまぬゆ」をえらんで、つなぐだけ。
「国」に翻弄され続けるシマ島の現実。
「国家」と「しまぬゆ」との関係で言えば、国家を乗り越えるためにこそ「しまぬゆ」はある。
どこに暮らしていようが、そこがその人の「しまぬゆ」だ。
「しま」は奄美諸島のシマ島だけではない。
地球自体が「しま」だから、それは「地球にあるすべての地域の世」のこと。
それぞれの「しまぬゆ」をそれぞれのシマ(地域)のシマンチュが築いていく。
当たり前のことがそうでなくなっている。
諸悪の根源である「国家」。
それを解体するためにこそ、本来の共同体である「しまぬゆ」をそれぞれの地域と地球に蘇生させるのだ。
自給力と自治力の再生・・・
「国家の連合」より「しま(地域)の連合」!
LET IT BE!より、DO IT MYSELF!
COMENTより、ACTION!
すべてを尽くしてこその無為自然!だ。
いつものワンのパターンだが、ゴーイング ワン ウエイ!
(^ム^)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜68)
8/10(つき)旧6/20(火の弟 亥)
こ(子)読み
|
▼ 昨夜(8/9)は
笠利町の「あやまる祭り」。
シマに還ってきたばかりの次女とそのダチコーたち&我が家族の7人づれ。
実は、今、売出し中の「
城 南海(きずき みなみ)」ちゃん(十九歳)を拝みに。(^ム^)
日ごろから世界の美(少)女チェックには目がないカミがなしの計画。
インド(ネシア)人のようにエキゾチックでセクシーなミナミのルックスを実見!
南海の水や波や緑のように揺らぎ、心地よくうねる(裏返る)ミナミの
グイン(奄美独特のこぶし)も実感!
まさに南海の城(=しま世界)だった。
朝崎郁恵ねぇさん以来だ、ワンには。
▼会場では、顔見知りのロン毛や腰巻(サロン)姿のアイターン者たちからずいぶん声をかけられた。
皆既日食の時、ここ「宇宿港」は「あやまる岬」や「奄美パーク」などと共に観測基地になったところ。
でも彼らは、皆既日食とは関係がなく、ここ数年来、奄美大島の北部地方に根付いている子育て世代だ。
「アマミで子創り、子育て中!」
いいねぇ。
銀河系を遊泳する青い惑星、生命のオアシス、地球島。
地球島の中の島々を流れながら、現在、奄美のシマ々の汀で遊んでいる彼らとはウマがあう。
島々の歩き方がにていて、ワンのムカシの、そしてコレカラのもうひとつのタビの鏡だからかも。
彼らの好きなところは、メ!だ。
ひとりひとりがほんと、いいメ!をしている。
▼それにしても、会場の宇宿港の広大さはいったいなんだろう。
駐車場も会場も満員だったが、半端な広さではない。
しかも、港には貨客用の船などなく、ボートと漁船がキモチ浮いてるだけ。
ただただ、はてしなくだだっぴろい、フシギな埋立空間。
名瀬に帰るとき、敷地内の駐車場から脱け出すだけで一時間もかかったのだから。
▼ここ太平洋側の宇宿地区は、奄美諸島の先史時代を辿るとき、必ず指標となる「
宇宿貝塚」の土地。
宇宿近辺は、旧石器時代から新石器、縄文、貝塚、グスクなど先史時代の遺跡の宝庫でもある。
あるサイトの
奄美大島の遺跡と史跡をみると、大半がこのあたりに集中しているのがわかる。
また、有史時代の1571年、宇宿には南方から琉球軍が攻めてきた「イクサ浜」がある。
アマシンで埋め立てられてしまったが、昔は、ホネやブキがごろごろ出てきたという。
さらに、38年後の1,609年3月7日(旧暦)、今度は北方から島津軍団が東シナ海側の津代(つしろ)の浜に攻めてきた。
宇宿と津代間は、一里(4キロメートル)弱の近さだ。
北大島の笠利半島は、古代からリュウキュウコのヘソ(関が原)だったのだ。
ちなみに、ワンのおっ母ん(土盛)もカミさん(大瀬)も宇宿校区の生まれ育ちだから、縁が深い。
▼宇宿港の眼前に浮かぶ喜界島には極東の無線を傍受するための通信施設、「ゾウノオリ」(航空自衛隊)が控えている。
宇宿港に隣接する「奄美海上空港」は、自衛隊機の着陸頻度が佐世保空港についで多い軍用空港。
空港に隣接する「運動公園、太陽が丘」もやけに広い。
この施設は、競艇のドン
笹川良一(「世界で一番金持ちの右翼」)が助成した。
その背後には、アマミ(コ)発祥の地とされているアマンデー(奄美岳)。
アマンデーのイタダキ(ます)には、これまた航空自衛隊の「レーダー」が鎮座している。
なぜなら、眺望がグンバツ!(軍閥?)なのだ。
さらに、旧奄美空港の跡地、「奄美パーク」には「一万人広場&駐車場」も。
・・・・・・
なんだこれってっ、有事の際の後方支援のための軍事基地ではないかっ!
情報、輸送、兵站、キャンプ地・・・・・・
ほとんどが「アマシン」による公共事業だが、その中身は、新しいオクニ(日本やアメリカ)のための軍事基地!
もういいかい〜イクサはゴメンだ〜もういいよぉ〜
▼・・・そんなことを思いながら、初アルバムへのサインや記念写真に忙しい
ミナミちゃんを、だらしなくまぶ(目守)っていた。
らっ、そこへ、なんとミナミのお父たんが寄ってきたのだ。
彼が、奄美信用金庫に勤めていたころからのつきあいだ。
その後、トラバーユして新刊書店の店長になった時にもわりと親しかった。
現在は、観光関係の仕事(ガイド)で忙しそう。
とっ、突然!
ドン!ドッカ〜ン!!
イクサのような爆音が海の方からとどろいた。
「最近は化粧が厚くなってねぇ・・・・・・」
19歳の娘のまばゆい成長に目を細めていたミナミパパも驚いてふりむいた。
父上の背後には広大な太平洋。
そのアマミゾ(水平線)から、十九夜の紅い月が雲間にぼんやりと昇っていた。
(「アマミゾ」とは天と海がつるんでいるところという奄美語、なんとも美しいひびきだ。)
さて、ハナビのはじまり、はじまりだ。
・・・・・・
1571年、438年前の「琉球国とのイクサ」では、北大島のシマ島にノロシが上がったろう。。
1609年、3月7日、400年前の「薩摩(ヤマト)とのツシロの戦い」では、火縄銃がとどろいた。。
1945年、8月9日、64年前、長崎市には、「アメリカから原子のハナビ」が落ちてきた。
1953年、12月25日、56年前、奄美の島々は、アメリカからジャパンに復帰して日の丸の旗が舞った。
2009年、8月9日、ワンは奄美市と合併した笠利町、宇宿浜の埋立地で家族たちとハナビを眺めている
・・・・・・
そんな歴史の絵巻が一瞬一瞬のハナビに映っては消えていく。
こうやって、時々刻々と「しまの世」は続いていくのか。
「ソノトキ、歴史が動いた!」ではなく、「イマ、自分の歴史を動かす!」
歴史の客観者から主体者へ!
自分の歴史は自分がつくるのだから。
宇宙の宿か アマミゾの十九夜 ミナミの城(しま)へ!
(^ム^)
※ この(8/9)日記、更新しっぱなし、いつまでつづくやら・・・?
(8/14記)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜67)
8/9(てぃだ)旧6/19(火の兄 戌)
こ(子)読み
|
▼ きのう、大阪の結(長女)から、父の日のプレゼントとラブレター、
また、家族への餞別(食事代)などがとどいた。
子どもたちのチには、同じ「しま時間」が泳いでいる。
宮崎のみこ(次女)は夏休み、早朝、フェリーあけぼので還ってきた。
福岡の一円(ひとまろ・長男)はバイトとシューカツ、か・・・?
奄美の美祝子(みのりこ・三女)は来年、高校受験、やっとエンジンが・・・。
美智子神がなしは、あいかわらずのマイペース。
まつこオッカン(=大神?95歳)は「虹の丘」の施設だが、つつがなく元気だ。
あんかり ごっとぉ むーる ほらしゃぁ!!
ワンはといえば、年中夢求の「あまみ庵」を10時に開ける。
18時に閉店して、送迎バスにて「大浜のタラソ」へ。
21時半に「進パーキング」に一時駐車、心友のノブオとジジ(時事)放談。
22時から夜半まで我が家で充電(飲食、TV、PC、雑談・・・)。
・・・のワンパターン・・・・・・
の、ゴーイング ワン ウエイ!
うれしいねぇ、光陰は矢のごとしだ
早くこいこいお正月、じゃないが、早くこいこい2013年。
そのココロは、3年半後には三女が多分、高校を卒業する。
次女は、多分、大学の二年生。
長男は、多分、社会人二年生。
長女は、看護師歴六年で多分、奄美で働いているだろう・・・・・・
安心立命して「しまぬゆへ復帰!」できたら本望なのだが。
(^ム^)
▼ 六年前、ガンの手術をしたとき、ワンの最大目標は、今年、2009年までなんとか生きつづけることだった。
2009年が何を意味するのか、リュウキュウコのシマンチュたちにとどいたろうか?
今年後半には、奄美(12の市町村)と鹿児島県の議会に、「@1,609年の歴史認識と連続性」、「A郷土(しまの世)教育の重要性」などを陳情していく。
陳情書はこれから起稿するのだが、誰もが得心しやすいフツーのことを発信するつもりだ。
9月議会、12月議会、来年の3月議会・・・と採択されるまでは粘り強く運動を続けていきたい。
この件について、ウォッチャーであるあなた!の、ご意見や、アイデアなどをお寄せいただけたら、オボコリ(感謝)です。
議会に具体的に何を認めさせ、何を具体的に要望していくのか?
先祖や家族のつながりと共に、やはり、この辺がワンのライフワークか。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜66)
8/5(みず)旧6/15(水の弟 午)
こ(子)読み
|
▼ きのう県大島支庁で鹿児島県の都市計画審議委員たちに口頭陳述したが、その記事を「奄美新聞」(8/5付)から。
7人が意見陳述
末広港区画整理で県都計審
奄美市
◆奄美市の進める末広・港土地区画整理事業の変更案について、県都市計画審議会(平田登喜男会長、16人)は4日、県大島支庁意見書の提出があった申立人からの意見聴取会を行った。
会は「個人情報に関わる」として非公開。委員7人が出席し、申立のあった19人のうち、口頭陳述を希望した7人が意見を述べた。
都市計画手続きの一環で、意見書に対して知事が審議会に付議した。9月上旬にも審議会を開催し、県としての議決を諮る。会に先立ち、委員は同事業と「おがみ山バイパス」事業の現地視察も行った。
変更案は@用地先行取得の増加に伴う減歩率の減少A電線など地中化計画の再検討Bまちづくり交付金導入による資金計画の内訳の変更ーなど。5月28日から6月10日まで縦覧し、利害関係者から意見を求めていた。
同事業は今後、十月ごろに仮換地案の作成、供覧。11月ごろに仮換地の指定。年度内の工事の着工を予定している。
|
▼ 今どき、しまの聖なる拝み山のどてっぱらに1600メートルのトンネルを掘る(165億円前後)。県下でも類を見ない名瀬のコンパクトな中心商店街をぶちこわす(100億円)。せっかく浚渫した名瀬の旧港を今度は埋め立てる(30数億円余)。計300億円ものばかげた道造り(しまこわし)に狂騒しているのが、政官民による「しまの世」=公共(破壊)事業だ。
あきれはてて、何をかいわんやのアマシン事業、その名瀬バージョンには一貫して猛反対してきた。
若干つかれはて、体力も気力も限界に近い。
「政官交代!」
明治以来の武士軍団を旗艦とする官僚艦隊。
現国土交通省をはじめとする末端(地方)まで汚れきった血(DNA)。
そこに巣食う政治家や民間業者たち(=政商)。
そんな中、社会面ではこんな記事が上の記事のま上に載っていた。
↓
「龍郷集落の稲刈り」
新しい「しまぬゆ」の芽吹きが各「シマ」で、今、同時に始まっている。
奄美大島唯一の稲作地帯である
龍郷町秋名(あぎな)集落もそうだが、その隣の奄美市
芦花部(あしけぶ)集落でも、ここ数年来、共同作業(結)による水田耕作が復活していて、黒米などを生産している。
奄美諸島の水田は1970年代に壊滅した。
その背景には、国の減反政策に乗じて、鹿児島県全体の減反割り当率を県本土分を手薄にするために、奄美諸島の減反率でカバーしてきた鹿児島県の農政があったことはあまり知られていない。
種子島などは、「国産早場米NO1!」で増加すらしているのだ。
「日本一!の早場米」?!
奄美・沖縄の水田を破壊しておきながら?!
奄美のサトウキビの価格保障が鹿児島県全体の減反目標数値の切り札に利用され、奄美の減反分はキビのための土地改良事業(アマシン)に転用されてきた。
しあkし、ここにきて、キビの価格保障はWTOによる市場価格原理に落ち着きそうだ。
つまり、県や国の農政に奄美や沖縄の「しまの世」の自給政策は騙さ(裏切ら)れてきたといえる。
あれから、40年。
アマミの「しまぬゆ」に生きるヒトたちは、「しま(シマ&島)」のメシの食い方について、ここらでもう本来の道に戻り始めている、ように思える。
個人ではなく、シマの総意としての田んぼの再生!だ。
「祭り」(好景気)から「まつり」(自給)へ!
シマ島の自治・自立の姿がみえる「しまぬゆ」へ!
↓
奄美新聞(8/5付)
カマの音も軽やかに
40年ぶりの稲刈り
龍郷集落手づくりの水田
◆ 龍郷町龍郷集落の活性化を図る、龍郷集落村おこし隊(宇都宮英之会長)4日、集落内の手づくり水田で稲刈りをした。4月に地域住民らの協力を得て水田を作り、同集落では40年ぶりとなる田植えを実施。もち米5キロ分の苗を植えた。経験者が少ない中、試行錯誤を繰り返し、防虫作業や草取りを経て、ようやく実り日を迎えた。
地域のお年寄りや子どもたち、学校の先生など、約20人が参加。2時間半で約5アールの水田の稲を刈り取った。作業中は参加者の笑い声が水田に響き渡り、集落の憩いの場にもなっているようだ。
参加した地域住民によると、約50年前は、同集落一面、約15ヘクタールに田畑が広がっていた。当時は4家族ほどでグループを作り、結いの心で稲刈りをしたという。
手際よく稲刈りをしていた柳田明子さんは「稲刈りは約40年ぶりだが、体が動いた。昔取った杵柄かしら」と気持ち良さそうに笑った。
宇都宮会長は「集落の人に手伝ってもらい感謝。1年目の経験を生かし、うるち米や黒米にも挑戦したい。数年後には二毛作も」と今後の活動に意欲を見せ、「人手はいくらでも欲しい。より多くの若者が参加してくれると、さらに活気がつく」とも語った。
収穫した稲は3週間ほど干したあと、龍郷小の児童らが、足踏み脱穀機で脱穀する予定。
|
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜65)
8/4(ひ)旧6/14(火の弟 巳)
こ(子)読み
|
▼ もうこれで何度目だろうか。
あまみ庵が借りているビルが都市計画の区域に入って、立ち退きになる。
それを、知った7、5年前に「まちなみを守る会」を立ち上げた(事務局長)。
東京・福岡・鹿児島などの官庁回りや、名瀬市当局との交渉を重ねてきた。
その間、ガンの手術を経て、今もなお官僚たちとの不毛なイクサを続けている。
今日も、鹿児島県都市計画審議会への意見書提出にともなう意見陳述があった。
午後1時半から、県大島支庁にて口頭陳述をやってきた。
やれやれ、である。
これまで、署名運動から始まって、陳情書、申し入れ、公開質問状、意見広告、説明会対応、公聴会、意見書提出(陳述)、出前講座、鹿児島地裁への提訴・・・・・・・などなどできるかぎりのことはやってきた。
しかし、それらも全部、当局にとっては、事業推進のための手続き(デスクワーク)でしかないのだ。
「住民の意見をよく聞いたうえで進めること」
という、行政や政治家の落としどころ(抜け穴)の「付帯決議」を添えるため(だけ)のイベントでしかない。
でも、一応の成果はあった(か?)。
当局では、6年前に工事着手の予定だったのを、ここまで引きのばしてきたからだ。
しかし、いよいよここにきて、第一期の工事着手予定は今年度内!とのコト。
一縷のノゾミは衆議院の選挙結果後の「世直し」に幻想するだけだ。
今日、
陳述したワンの意見をここに遺す。
(^ム^)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜65)
8/2(てぃだ)旧6/12(土の弟 卯)
こ(子)読み
|
▼夏、恒例の「奄美まつり(第46回)」
一昨日の「シマ(唄)あすびの夕べ」から始まった。
おとといは「花火大会」、5000発!(予算は分からないが)。
毎年、新作を発見するのが楽しい。
家族(今年は三人)で佐大熊の海上の橋から堪能。
きのうは、「舟こぎ競争」と「八月踊り」
三十三ものシマジマの踊り連を巡って足なれした。
どこのシマも基本的には同じなのを体感。
朝から腰がヤ(痛)む・・・ (^ム^)
きょうは、「相撲大会」と「パレード」
「まつり」(五穀豊穣)らが「祭り」(商売繁盛) ちぢ(続)しゅりマツリ
をぅどぅ(踊)りむ 花火む 「しま」ぬあとぅさき
1,609年のころの「しま(シマ&島)のまつり」を幻視しつつ・・・・・・
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜64)
7/31(かね)旧6/10(火の弟 丑)
こ(子)読み
|
▼ きのう掲載した多くの「見出し」の中で気になりながらも参加(傍聴)できなかった「会」がある。
「◆将来ビジョン策定懇談会。きょう奄美会館で」
この懇談会のもようが今日、地元両紙に載っていた。
〔奄美新聞〕:10年後の奄美像考える。人材育成や地域力再生。奄美大島・喜界島地区懇談会
奄美地域将来ビジョン(仮称)策定に向けた第3回奄美大島・喜界島地区の懇談会が30日、奄美市の奄美会館であった。10年後の奄美像について、引き続き意見交換。皆既日食で見えた魅力を振り返るとともに「複合的な視野を持った上での人材育成」、「奄美の持っていた地域力の再生」などの意見が出た。
会は冒頭、皆既日食について振り返り「清掃でゴミがひどい所が見えた一方、自発的な取り組みが重要と分かった」、「景観や人情、奄美の位置も伝えられた。足元の魅力を見直したい」などの意見が出た。
ビジョン策定に向けては「教育を根底において、経済発展と担い手の育成が必要」、「取り巻く環境・歴史をより知るべき。奄美の遺産は世界自然遺産と同様に重要」、「専門家と一般の両方の視点から価値の再評価を定めたい」などの提案があった。
一方で、「長寿者とともに自殺者、早世者も多い。現状の詳しい検証が必要」、「自然や文化は修復が困難。環境への規制はすぐにでもやるべき」との課題も指摘された。
|
〔南海日日新聞〕:共生条例や集落維持策優先を。大島・喜界地区ビジョン懇。
県大島支庁の「奄美地域将来ビジョン(仮称)策定に向けた奄美大島・喜界島地区懇談会の第3回会合は30日、奄美市の支庁奄美会館であり、ビジョンで掲げる「日本一の癒しと活力の島づくり」に向けた具体的な取り組みの方向性について意見交換した。「自然と人が共生するための規制条例の制定や、結いの心を育む集落を維持する方策を優先してはどうか」といった提案があった。
同ビジョンは県が昨年策定した「かごしま将来ビジョン」の奄美版。おおむね10年後の目指す姿を描き、その実現方策などを盛り込む。群島を3地区に分けての各島懇談会と群島全体懇談会が断続的に開かれており、本年土中にビジョンを取りまとめる。この日の地区懇談会では先日の皆既日食について感想も出し合った。バス事業者は同市の金作原原生林へのレンタカー乗り入れを規制して実施したバスツアーを紹介して「規制をしても手立てを講じれば共生する形で自然を満喫できるのではないか」と同種の取り組みの広がりに期待した。
同市のNPO法人役員は「皆既日食を通じて奄美の地理的な位置を国内外に発信できた意義は大きい」と話した。喜界島のサトウキビ農家は、「地域住民が島の景観やもてなしといった足元の資源を大事にしていこうという気持ちになったのではないか」と話した。 |
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ 上の同ビジョンは県が昨年策定した「かごしま将来ビジョン」の奄美版。
行政のやることだから政党のマニフェストなどと同じ、ガス抜きのための絵空事がてんこ盛りになるのだろう。
半世紀以上、少しも変わらぬ「アマシンの目的(ビジョン)」のように・・・
いやそれではだめだ、私にも意見が!という興味のある方。
↓
鹿児島県企画部離島振興課、奄美振興係、電話番号:099-286-2450(直通) か、
鹿児島県大島支庁、総務課、地域振興係:(0997−53−1111)まで。
次のような「意見公募」のスケジュールになっていてるようですよ。
◆また、
8月には新奄振のパブリックコメント(意見公募)もあることから「将来ビジョンは10年後。踏み込んで夢のある表現を示したい」との意見もあった。ビジョン案は県のものと合わせ、昨年度から各支庁単位でも案の策定作業を続けている。今後は年内に群島懇談会を2回開催し、
12月にパブリックコメントを公募。年度内に公表する見通し。」(奄美新聞より)
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
しまぬゆへ!
−あまみ・かごしま・りゅうきゅうこ、将来ビジョンは1,609からー |
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜63)
7/30(き)旧6/9(火の兄 子)
こ(子)読み
|
▼ ヒマ〜ッ!
今日(7/30、木)の南海日日新聞(全10面)、スミ〜スミまで読みとおした。
ヒマついで・・・・・・地元アマミにかかわる記事をこのさい全部、掲載する(「見出し」だけ)。
(^ム^)
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
(1面)
◆「新たな防除方法確立を」。クロマダラソテツシジミ。
岩主任研究員(龍郷駐在)が提言。森林技術センター発表会。
◆「経営革新に取り組もう」。 地域力連携拠点事業セミナー。奄美市。
◆足腰の強い産地に。JAあまみ伊仙町肉用牛振興会総会。
◆将来ビジョン策定懇談会。きょう奄美会館で。
(2面、総合・市況)
(3面・ジュニア)
◆学習、憩いのスペースを。伊仙町子ども議会。
「ほーらい館」充実で要望。11小中から22人が”登壇”。
◆ダイヤモンドリンク見えた!喜界・小野津小で日食観察会。
◆5・6年生がシンクロ披露。息の合った演技に歓声。奄美小学校SP少年団。
(4面、文化)
◆「なんかい文芸」
青嶺短歌会。短歌グループ水の会。和泊短歌会。知名町短歌会。龍郷町短歌会。稲穂岳俳句会。
(5面、スポーツ)
◆地球防衛軍が初優勝。瀬戸内町ナイターソフトA級。
◆天城町水泳記録会。
(6面、テレビ・ラジオ)
(7面、なんかいネット)
◆ため池20年ぶり清掃。知名町黒貫 住民ら共同作業。
◆中学生ら一日体験入学。大島高校で、来春に思い。
(8面、社会)
◆人気のハナヒゲウツボ撮影。龍郷・倉崎沖で古田さん。
◆ウミガメふ化飼育開始。50匹、来月8日から公開。奄美海洋展示館。
◆ミナミマグロ完全養殖に道。近代、種苗生産に初成功。
◆日食、追体験して。奄美市の別府亮さん。80枚、あすまで写真展。
(9面、社会)
◆大不況、奄美も直撃。名瀬職安08年度業務概況。
求人0・33倍、求職者急増。新規高卒、管内求人は42人。
◆「盗難多い、罰則強化を」。東京で野性ラン展と報告。徳之島の山下弘さん。
◆ノヤギの行動明らかに。奄美哺乳類研究会総会。効率的な駆除法の提案。
◆ジャム5品を採点。瀬戸内商工会。新特産品開発で品評会。
◆定期船から転落、男性、無事救助。名瀬港。
(10面、テレビ)
◆ ★mix(MBC=深0・20)
皆既日食を前に、奄美大島で開催された野外ライブ「夜ネヤ、シマンチュ、リスペクチュ!!」。元ちとせや中孝介、我那覇美奈など、奄美に縁のあるアーティスト25組が出演した夏フェスに密着。その舞台裏やライブの模様をインタビューを交えて紹介する。
|
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
↑
きょうこのごろの これが 「アマミのしまの世!」
ツツシンデ みなさまに 猛暑のおみまいを・・・
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜62)
7/26(てぃだ)旧6/5(水の兄 申)
こ(子)読み
|
▼うづきぬ島(月)と、てぃだぬ島(太陽)との全き合体.。
くぬ島(地球)から拝んだあの「カイキな日食ショー」!
その後のアマミのシマ島は、はて、どんなカオを現すのだろうか?
南海日日新聞(7月24日付)をのぞいてみた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「皆既日食」
「観光業界、活気づく」
「国内外から1万5千人ともいわれる観光客が南島に入った。」
◆玄関口、混雑 ◆経済にインパクト ◆世界へ飛躍
▼ 皆既日食には国内外から大勢の観測者が訪れ、官民一体で奄美大島を売り込んだ。平田市長は「多くの来島者が奄美の自然や文化、温かい人情に感動していたようだ。新聞やテレビ、ラジオによって奄美大島が全国、世界に発信された。これから世界自然遺産登録に向け、具体的に動かなければならない」などと話した。
|
◆ 「南海天地」(コラム)から
▼奄美大島の景勝地・土盛海岸。数日前から増え始めたテントの数も、当日朝には大小約80張りに広がった。そのほとんどが都会からの若者グループや外国人など。前夜のどんちゃん騒ぎから一転、浜辺は静まり返ってその時を待った。▼曇天の下、人々は、雲間に見え隠れする太陽を祈るように見つめた。日食が始まると、「見える、見える」「欠けている」。午前11時前、皆既になり急速に暗闇が広がると、「ヤバイ、ヤバイ」「スゴーイ」と感嘆の声。思わず万歳する若者もいた。(略)吉田拓郎の歌ではないが、今、「祭りのあと」の寂しさをかみ締める余裕はない。▼衆議院選もいよいよ本番を迎える。各地の「祭りのあと」も、臨戦態勢は続く。
|
※ どうやら、「祭りのあと」には「世界自然遺産登録」と「衆議院選」のご来光のようだ。
はたしてそこから、「奄美の自然や文化、温かい人情」などのモロモロはどんなカオをみせるのだろうか?
そもそも、
「奄美」とはなにか?
「奄美の自然」とはなにか?
「奄美の文化」とはなにか?
「奄美の温かい人情」とはなにか?
それらは、自然とカミと我々物質たちがつながって生きている「しまの世」のことである。
しかし、「しまの世」は、「しまん人」のためだけの商品(ネタ)ではないのだ。
我々が世界にほこるべき「しまぬ世」ではあるが、はて、今のままでいいのだろうか。
(線路のように)
し〜まの世は 続く〜か〜? ど〜こま〜で〜も〜
地〜球も 回る〜か〜? い〜つま〜で〜も〜
そのためには、まずは我々の母なる「しま=地球」自体が生活(自給)できることが大前提であろう。
親不孝者の我々(ヒト科)は、トミやカネのため、営々と母なる自然を殺し続けてきたが、生母の蘇りを期待できるだろうか?
山川草木から鳥獣虫魚にいたるまで、「しま」では加速度的に生活(自足)しにくくなっているのが「しま」の現実なのだ。
どうやってクリアしていけるのか?
「世界自然遺産登録」の美名(便益)のため、今後展開されるだろうさらなる愚かで投機的な開発・自殺の営為を阻止できるだろうか?
まずは、アマミの自然自身が循環(自給自足)できるような環境政策を柱にできるだろうか?
「自然でメシが食えるか!」ではなく、「メシは自然から!」へと方向転換できるだろうか?
「文化や温かい人情」なども、ヒトを食わせている「しま」の自然環境からしか産まれない。
アマミのカオ(しまの世)を世界に開いていく可能性はそこにしかないと思うからだ。
「1,609!」のテーマも当然そこへリンクする。
カゴシマやヤマトと、またリュウキュウコとアマミはどう向き合っていけばそれぞれの「しまの世」の展開が可能なのか?
というワンのテーマも「1,609!」を軸にすることで、具体的で広範なビジョン(議論)を展開できると思うのだ。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜61)
7/22(みず)旧6/1(土の兄 辰)
こ(子)読み
|
▼ きのう、親しかった従姉の久代ネーが突然、雲に隠れた。69歳。
母方の一族は、というより笠利町の土盛(トモリジマ)の人たちは、総じて明るい。
奄美大島の景観を代表する
土盛海岸のように、人々には清浄な雰囲気かある。
その中でも、久代ネーは最大級に明るくハナがあった。
「大島紬」と「四人の子育て」と「土盛会」に打ちこんできた。
叔母であるワンの母(95歳)をとても大切に思ってくれて、それこそ年中、家や施設に見舞ってくる・・・
そのときいつも持参する揚げたての野菜のテンプラは最高のご馳走だ・・・
葬儀(告別式)は、諸事情から名瀬市内で今日の午前11時から。
世紀の天文ショーといわれている皆既日食がちょうどピ−クを迎える時間帯だ。
母の土盛海岸で観ることをあきらめて、名瀬市内を見下ろす「
拝み山」に登った。
「拝み山」は、ワンがその水で産湯をつかり、遊び育ててもらった遊園地。
今日、笠利町や特に喜界島などでは、日食が観測できたという。
しかし、名瀬市はあいにくの曇天。
用意した日食グラスも陽射しが弱すぎて、なにも映らない。
それでも10時半ごろから薄暗くなり始め、樹上のカラスたちが眠りこけ、セミの大合唱もやんだ。
そして、10時55分から約2分間、あたりは薄明から夜景に転じた。
なぬっ、これが、セイキの、カイキ日食!? か〜っ?!
確かに、
ウブスナ(産まれた土地)で、日食の闇を体感できたのはベストだった。
2,009年の皆既日食と1609年をリンクするのもここからだ。
それぞれのウブスナに生きている
螺旋の海との対話から始めたい。
急ぎ、「拝み山」を降り、すぐそばの葬儀場へ自転車でかけつけた。
友人の住職がちょうど読経を始めるところだった。
日食が終わるのを待っていたかのように、午後には大雨がやってきた。
いつもティダ(太陽)のように明るかった久代ネーガナシに尊がなし!
いちむ いちんけん ほんとっ おぼこり ありょうたぁ〜!
なまらがやぁ あまなんてぃ よーりっくゎ やすもりんしょうれぃよぉ〜!
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜61)
7/20(つき)旧5/28(火の兄 寅)
こ(子)読み
|
朝崎郁恵さんから招待状(8日間の通し券、なんと3万円!)をいただいた。
せっかくなので、これから覗いてきます。(^ム^)
2006年から続いている「
奄美皆既日食音楽祭」(カウントダウンパーティ)も、とうとうあと二日。
3年前、大和村での「ハナハナ」には坂本龍一が。
(翌日、あまみ庵にも立ち寄った)
一昨年から、ロケーションは笠利町の「
明神崎」に。
本命の今年は
ディープフォレストだ。
本音では、ジミークリフにきてほしかった・・・
いつも、今年が最期!と踊っている・・
(^ム^)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜60)
7/18(つち)旧5/22(木の兄 子)
こ(子)読み
|
▼ 請島の「池地」(シマ)ではなく、
喜界島の『池冶誌』(池冶誌編集委員会、昭和53年、476頁!、非売品)と昨日からつきあっている。
立派な集落誌なんだが、おっ、これは!?の世界に今のところ出会えていない。
なんというか、池冶というシマの顔や香りが伝わってこない、のだ。
おそらく、元教師たち(6人)が執筆、編集されたのだろう。
奄美史のセイ書(『大奄美史』)の焼き直しの感がいなめない。
その中で、ひとつだけ紹介すると、
※ 「首かせの刑」
「首にはまるだけの穴をあけた。重い二本の木をかたくしめてはかせ、役人つきそいで、喜界嶋三十三が村を一めぐりさせたのである。当時の道路は、デコボコ道でせまく、坂を登るときなど、あえぎあえぎ命がけで登ったという。もし登る足どりでも止まるものなら、つき添った監視の役人に、血のにじむ程、むちを加えられ、大声で叱咤された。
各村にはいると、前もってふれてあるので、大勢の人の集まる中を、役人にみちびかれて、村の広場にいたり、ここで小休止の時、かせを石垣にもたせかけるが、頭は下げることができず、さながら、生ける屍のようであったこと。
すなわち、世人への見せしめのためであった。」 |
このくだりだけは、わりとリアリティがあるのだが、それでもヒトのカオが見えてこない。
▼
『与路島誌』(奥崎一著、2002年、私家版、595ページ!)の56pから関連の記述を。
8、遠島人と与路島
「古記録によれば、薩摩藩が大島諸島を流刑地として定めたのは、寛政元年(一七八九年)の頃からといわれ、嘉永五年(一八五二年)には遠島人の数は三四六人とある。このうちに与路島に流された人の数も含まれているものと考えられている。
口碑によると墓地の下に牢屋が建ち、牢人は間切から役人が来て監視していたと伝えられているが、人名や罪名・人数等の記録もない。死刑囚は、シマ(集落)の南側にある三丁鼻で落殺処刑したと伝えられている。刑期が終了すると赦免されて帰る人もあったという。」
|
ここにも、「人名や罪名・人数等の記録もない」。
しかし、「記録もない」、その意味を嗅ぎながら、イメージや絵はキモチ浮かんでくる。
▼ 『池冶誌』の最終章「思い出(在郷者と出郷者)」を読みながら、「シマと
ふるさと」の違いを考えている。
「シマ>古里⇔新里」
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜59)
7/14(みず)旧5/22(火の兄 申)
こ(子)読み
|
▼
『与路島誌』(奥崎一著、2002年、私家版、595ページ!)
与路島(ユン)はカケロマとトクの島の間に位置する、奄美八島の中で最小の島である。
「一島一シマ」に、昭和2年には1267人、戸数176(7,2人/戸))が暮らしていた。
現在は、人口は123人、世帯数74戸(1,6人/戸)である。
「シマの暮らし」の中から、今日は与路島の「職」だけを抜粋。
◎ 「与路島の職人」(246p)
※ 昔のシマの生活は、衣食住をはじめ日用雑貨・生活用品・漁労用具・炊事用具などすべて手造りで調達していたので、そこには夫々専門の職人がいた。
中でも、建築関係・舵取り・スゥデク(棟梁)・屋根葺き・石積み・砂糖炊き・樽造り・釜造り・染物・衣縫い・料理人・布織り・農具造り・ 竹細工・下駄造り・畳・筵造り・ミノカサ造り・楽器類造りなど、島(シマ)では自ずからこれらの職人が必要となり、これがその人の一職業ともなっていた。
「千人は同志暮らし」という言葉が生まれていることもうなずける。
|
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※「千人は同志暮らし」
一箇所に千人の人が住めば、互いに暮らしやすくなる(生活共同体)。
※「センイチ」
千の話をしても、その中に真実の話は一つ(虚言)。
※「世間ガホゥ(果報)ズ、ワァ(吾)ガホゥ」
世間によいことがあれば、わが身にも恩恵がある(連帯・果報)。
※「世間な、わぁ(吾)かがむ(鏡)。
世間は吾が鏡。世間の人がよく見てくれる(世評)。
『与路島に残るおやふち(親先祖)ぬ言葉ータツィグツとシマクツバ』(同じく、屋崎一著、昭和62年、私家版より)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜58)
7/14(みず)旧5/22(火の兄 申)
こ(子)読み
|
▼ きょうの「シマの暮らし」の紹介だが、実は時間があまりない。
『親がなしぬしまー鹿児島県大島郡宇検村田検』(渡 武彦、昭和50年、私家版)から「食」だけを引用させていただく。
「しまぬゆ」の衣食住の現場から押さえていきたい。
◎ 「食」
※ 「昔時の食生活は勿論自給自足で粗食に甘んじていたことが想像される。
格別、現金の必要がなかった古くは一年中の毎日が食料の生産に重きをおいていたので、農業一途の家庭では、降っても晴れても真冬の極寒の日も、真夏の炎天もいとまなく、病人以外は家族全員で一日中、山野海川野良に出て食糧生産に励むのであった。
先ず年明け早々に苗代の仕立て、籾種子の播種育成、二月より三月にかけては製糖、四月田植え、五月六月は水稲の刈り入れ、七月の後半より八月九月の前半には祭りと村遊び、十月頃よりは家普請の季節に入り、十一月の山野に雪霜の降りる以前に甘藷の掘り取りがあって、先ず一年中の食料が確保されることになる。」 |
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜58)
7/14(みず)旧5/22(火の兄 申) こ(子)読み |
▼昨日(請島のウケアムロ)に続いて、さて、今日の、ここ(個々)はどこのしま(シマ&島)?
↓
※ この五十五・七一平方キロの小さな島に三十四のむらがあるので、当然むらとむらの間は狭く接近し、道一つ隔てて隣り合わせてのむらもあり、どんな離れたむらでも、隣のむらとは一里(約四キロ)とは離れていなかった。しかし、不思議なことには、この小さな島で、しかも隣り合わせのむらでも、人情、習慣、気質、言葉など、社会生活を営むうえでの感覚に微妙な違いがあり、他のむらとの交流は低調で多分に排他的なところがあったように思う。
※ 味噌・醤油から、常食とする唐芋や、砂糖、野菜、山羊肉、豚肉など、およそ日常の食生活はあるていど
自給自足ができるということが唯一の救いであり、贅沢さえ言わなければ
最低限の生活ができる恵まれた島であった。
『喜界島風土記』(拵嘉一郎著、1990年、平凡社)
大正末期から昭和十二、三年ころまでの喜界島は
阿伝(あでん)を中心とする集落誌からです。
▼ 『大正七年 鹿児島縣大島郡統計書』(奄美史料21、平成3年、鹿児島県立図書館奄美分館)による当時の人口と、『平成19年度 奄美群島の概況』からの人口の推移です。約一世紀のシマ島のモノガタリ・・・・・・
村名 |
現住人口
大正七年
(1918年) |
一戸當人口 |
現住人口
平成19年
(2009年 |
世帯数 |
一世帯人口 |
名瀬 |
24860 |
5,4 |
奄美市
48156 |
20750 |
2,3 |
|
5306 |
5,7 |
奄美市と合併 |
|
|
笠利 |
14030 |
6.9 |
奄美市と合併 |
|
|
大和 |
6262 |
5,8 |
1934 |
874 |
2,2 |
宇検 |
9355 |
7,2 |
1995 |
929 |
2,1 |
西方 |
5731 |
5,6 |
瀬戸内町と合併
|
|
|
実久 |
5955 |
6,1 |
瀬戸内町と合併 |
|
|
鎮西 |
8461 |
6,2 |
瀬戸内町と合併 |
|
|
東方 |
10300 |
7,0 |
瀬戸内町に改称
10385 |
4814 |
2,2 |
龍郷 |
13126 |
7,0 |
6037 |
2459 |
2,5 |
喜界 |
21315 |
6,2 |
8397 |
3758 |
2,2 |
亀津 |
13399 |
7,9 |
徳之島町に改称
12679 |
5363 |
2,4 |
東天城 |
11474 |
6,3 |
徳之島町と合併 |
|
|
天城 |
12841 |
6,0 |
6793 |
2845 |
2,4 |
島尻 |
18135 |
7,2 |
伊仙町に改称
6876 |
3015 |
2,3 |
和泊 |
13086 |
5,7 |
7317 |
2966 |
2,5 |
知名 |
14430 |
6,7 |
6856 |
2850 |
2,4 |
輿論 |
8644 |
5,7 |
5625 |
2850 |
2,0 |
十島 |
3553 |
6,9 |
分離 |
|
|
計 |
220353 |
6,3 |
123050 |
52801 |
2,3 |
この表から、何を読むか?
「しまの世」とは、なにか?
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜57)
7/13(ひ)旧5/21(土の弟 羊) こ(子)読み |
▼ 去年、請(うけ)島に行ったとき
、『請阿室(うけあむろ)集落のあゆみ』(平成17年)を読んだ。
以下、「変わり行く生活環境」の中からかいつまんでみる。
◎生活環境
※ 「昔は殆ど自給自足の生活が行われていた。
水道はなく、多くの家庭で井戸を掘り山手の湧き水を利用して生活用水にしていた。
燃料はすべて薪を利用し、料理の食材は米・イモ・ソテツ・野菜・魚・肉・山菜等、調味料の味噌・塩・酢等、お金で買うものは一部を除き殆どなかったように思う。」
※ 「衣類についても、昔は蚕を飼い糸をつむぎ、これを衣服に利用していた。
又、自生の芭蕉(バシャ)を繊維に加工して「バシャギン」に利用していた時代があった。」
※ 「いずれも、今から考えると製品にするまで大変手間のかかる仕事であったと思うが、当時の人が知恵を出し合い、工夫を凝らしながら生活していたことを考えると、昔を彷彿させ心が和む思いさえする。」
※ 「住宅の材料は殆どが、島の山から切り出された木を利用して家が造られた。
柱・根太は主に椎の木を利用、桁は松ノ木が利用され、屋根はカヤが利用された。
壁の一部の材料を除き、殆ど島産の木材を使った建物であり、大工も島の人が棟梁をつとめ、島に住む人々の助け合いによって「ヤブシン」(家などを造る事)がなされていた。
当時は「ユイワク」(お互いに助け合うこと)によって、あまりお金を出さずに家を造ることができたようである。
現在、新築の材料はすべて購入する時代へと移り変わり、殆ど請け負い業者によって建築がなされ、多額の資金も必要である。」
※ 「半世紀余りの中で、自然環境・生活環境も様変わりしてきたが、今後どのように変化していくのか、人間社会の複雑な背景も踏まえ全く想像し難いが、人と自然が共生できる時代が続いてほしいものである。」 |
◎公共事業と生活
「奄美群島の日本復帰(昭和二十八年)以後、請阿室集落は郡内で他の集落に先駆けて、公共事業の導入がいち早く行われていた。」
※ 「奄振の雇用により、特に若い方々が他の産業に意欲を失い、折角整備された農地も荒廃の一途を辿っていることも事実である。
『生産基盤・生活基盤を整備して、産業を振興し生活の安定と人口の定住を図るこの目的の奄振事業』がここにきて、大きな人口の減少に歯止めをかける事はできなかった。
この奄振について人それぞれ様々な評価があるようだが、島の歴史に残る国の莫大な予算を投じて行われた大事業であり、複雑な疑問を持つ半世紀の出来事でもある。」
|
|
|
◎請島の「戸数・人口の推移」
年度 |
人口 |
戸数 |
昭和2年 |
1,496 |
225 |
昭和30年 |
1,174 |
295 |
昭和40年 |
836 |
249 |
昭和50年 |
501 |
174 |
昭和60年 |
325 |
149 |
平成12年 |
200 |
113 |
平成21年 |
152 |
|
97 |
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ 請島には「請阿室」と「池地」の二つのシマがある。
現在の人口は、それぞれ80人と70人前後。1世帯あたり1,56人。
上に引いた「昔」の暮らしの時代、水道も電気も商店もない時代、たとえば昭和2年(1927年)、今から半世紀以上も前のころ、二つのシマには800人と700人(6,7人/戸)のコスモロジーがあり、ヒトは自然のフトコロで暮らしていけていた。
周囲24キロメートル、面積13.7キロ平方メートル。
池地小中学校(島に一つ)には、現在、中学生はゼロ人、小学生は3人。
隣のユル・ユン(
与路島)は一島一シマ!、人口は123人、世帯数74戸(1,6人/戸)。
一つの学校には中学生が4人、小学生が5人。
与路島は9.25キロ平方メートル.。ここも昭和2年の人口は1267人、戸数は176(7,2人/戸))。
請島と同じくここも82年間で9割の人口減・・・・・・
ちなみに、現在のユンヌ(与論島)は周囲23キロメートル、面積は20.5平方キロメートル。
人口は5590人で世帯数は2388戸(2,3人/戸)。小学校3、中学校1、高校1。
「しまの世(しまのチカラ=しまのジチリョク?)」とは?!
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜56)
7/9(き)旧5/17(木の弟 兎) こ(子)読み |
7/5(日)は、久しぶりに大島南部へ。
去年の夏、
請島(奄美南部)固有種の請ユリを観にカケロマ経由で出かけて以来。
↓
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2008/6/9(ひ)旧5/7(かのえ たつ)
/こ(子)読み
▼ きのう(6/8)はカケロマ経由で請(うけ)島へ
今が盛りの請百合(カサブランカの原種)と
諸鈍の300年目のデイゴ並木見物ツアー
店を閉めてスタッフ二人とカミサンとワンの4人が参加
貸切の船で、総勢20人のアイアイモード旅
ナゼ〜クニャ〜セソー〜イコモ〜イケジ〜ハンミャ島〜
シュドゥン〜イケンマ〜クニャ〜ナゼ
07:30〜16:30の充実トリップありょうたぁ
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼
「第15回奄美シーカヤックマラソンIN加計呂麻大会」
午後からの出発だったので、シーカヤックマラソンは終わってた。
それで、
古仁屋から東部の
清水、
嘉鉄、
蘇刈の集落と
ホノホシなどをゆっくり探索。
路地の隅々、家並みの陰陽、それぞれのシマの歴史(物語)とDNAが重い・・・
いつもそうだが、今、ここ(個々)の風景の四百年前や四百年後の宇宙(時空と物質)の連続性を思念する。
夜は、シーカヤック大会の打ち上げイベントに。
地元・クニャ(古仁屋)の「八月踊り」に参加して、わかったこと。
南部の「八月踊り」のテンポも、北部のように後半は速くなる。
同じ南部でも、「しま」ごと(たとえばカケロマ、ウケ、ヨロなど)のテンポは、やはり、それぞれに違う。
「南部の八月踊りは最後まで同じテンポ。それは、ノロのまつりを反映しているから・・・」
などと見聞してきて、てっきりそうだとばかり思っていた・・・。
奄美大島の南北の文化の相違(ウタやコトバやマツリゴトなど)もそう単純に色分けするべきではない。
シマ島ごとの根が違う。
たとえば、喜界島語。
「北部は、奄美大島語と徳之島語圏。南部は、沖永良部語と与論語圏」
とされてはいる。
が、こういう分類や定説なども、よくよく見聞(検分)する必要がある。
自然の請ユリなどはいいが、ヒトの受け売りなどにもご用心!
137億60歳(?)の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜55)
7/4(つち)旧5/12(火のえ いぬ) こ(子)読み |
▼ たとえば、次の有名人五人のシンプルな箴言。
それぞれのヒトコトは奥が深い。
人や事などの生き死に。
ひとごとではない。
ナ(汝)ン、ア(彼)ン、ワ(吾)ンのヒストリー(モノガタリ)・・・・
(^ム^)
※ 「私はただ、真理という大海の砂浜で小石を拾っている子供のようなものだ。」(ニュートン)
※ 「自分が真実の山をすりつぶして、 一般法則をしぼりだす機械か何かになったような気がする。」(ダーウイン)
※ 「結局、 私の生活は苦痛と重荷にすぎなかったし、75年の全生涯において、真に幸福であったのは4週間とはなかった
。」(ゲーテ)
※
「ビートルズは、ほしいだけの金を儲け、好きなだけの名誉をえて、何もないことを知った」(ジョン・レノン)
※
「書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない」(村上春樹)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜54)
7/2(き)旧5/10(つちのえ さる) こ(子)読み
|
▼渡辺格著
『物質文明から生命文明へ』(1990年)、
『なぜ、死ぬか』(1993年)
※ 生まれてきたことに「意味」はないのだから、死ぬことにもやはり「意味」はない。
※ では、なぜ生きるのか。それを探るのが、今、地球上に死ぬべくして生まれてきた、われわれ人間なのである。
▼ 科学者、渡辺格さんの問題提起にどう向き合えばいいのだろうか?
この世に在るモノすべてには(ホントに)「意味」がないのだろうか?
そもそも、この「意味」という概念の「中身」こそが問われるべきではなかろうか?
宇宙のモノやコトに「意味付け」するのはヒトだけだからだ。
ヒト世界にしか通用しない、哲学・宗教・科学・芸術などの世界。
そこでの意味論や直感力や愛などは宇宙の全体像のどれほどを描ききれているのだろうか。
宇宙のマクロからミクロまでの真理(?)をどれほど解明しきれているのだろうか?
ヒト科の答えなどは花火のようで、氷山の一角ほどの答えも獲得してはいないと思う。
「すべての答えは、自分の中にある、自分自身に聞け!」というのがインドの教えだ。
渡辺さんの疑問には、それぞれがそれぞれの「しま宇宙(自分の世界)」に問うのが一番の答えかもしれない。
では、ワンにとって生きる意味は?
確かに「意味」などはない、が、「生きる」コトをとおして「生きる(死ぬ)とはどういうコトか?!」ぐらいはわかる。
生老病死、因果応報、四苦八苦、色即是空、輪廻転生・・・・・・アジア的なオシエがある。
ヒトは宇宙が創った宇宙を観察する目である・・・・・・ニュートン以来の宇宙物理学の着地点もある。
しかし、「生きることの意味」について、さも○●的な意味付けに洗脳されるのはゴメン!だ。
生き代わり死に代わり、連綿とつづいていく浮世の喜怒哀楽にこそ、とぉとがなし(尊愛し)!
だから、それぞれに選ばれた浮世のバトンを次の世にタッチするため泳いでいくのだ。
オリジナルで多様なそれぞれの蜘蛛の巣(バトン)をはる、とか。
バトン?
だれに、なにを、どうやって?
「むずぃ(水)やぁ山おかげぃ、ちゅう(人)やぁ世間おかげぃ」
「神の上に水がある」
「知らん神拝むな、親拝め」
「親な(産)しゃんくゎぁ(子)」(のようにはなるな)
「ちな(縄)切れとぅ をぅなぐ(女)ぬくゎぁ(子) にゃぁ 余りやね(無)ん」
しま(シマ&島)の子どもたちへ「しまの世」のDNAを手渡していくこと。
ワンの四人の子どもたちは、それぞれの新しいしま(世界=宇宙)へ巣立チング。
親のワンは「しまの世(連合)」を、一六〇九年を軸にすることで、内外に発信グ・・・?
「しま(の世)のDNA」については、目下取りくみングで、『しまぬゆ2号』に発表のつもりング。
いつも現在進行形だから、この先どうなるかはわからない。
が、たとえ今晩たおれても、悔いはない。
いつの世も、ツブとナミとでつながっていく。
ウィルス(シマ宇宙)から銀河系(島宇宙)まで。
どんな環境に遭遇しようが、宇宙のスミ(シマ)からハテ(島)まで、つなぎ、つらなり、泳ぐのだ。
それが、ワンの生きる意味。
それが、ワンの「しまぬゆ連合」!
「オンリィ ワン!」から「エブリィ ワン!」への「ワンワン連合?」
(^ム^)
こういう宿題を与えてくれた渡辺格さんへ!おぼこり(恩送り)!
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜53)
6/30(ひ)旧5/8(ひのえ うま)
こ(子)読み
▼渡辺格著
『物質文明から生命文明へ』(1990年)、
『なぜ、死ぬか』(1993年)
(を読む。引用のみですが、ご想像を!)
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ 宇宙は、物質→生命→精神という重層的な構造を持って死滅に向かう。
ビッグ・バン(エネルギーの世界)
↓(分散化)
素粒子の世界
↓(相互作用、核種)
原子の世界
↓(相互作用)
分子の世界
↓(複合体として星や太陽系、化学進化))
生命の世界
↓
心(精神の世界)
↓
文明
↓
死
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▼
※ 滅亡へと向かう宇宙のなかに文明は生まれる。人間の営みそのものが、死に向かっているのだ。
※ 人間の一つの細胞の中のDNAは、直径は一〇〇万分の二ミリ程度の細さだが、つなぎあわせると全長二メートルほどになる。
※ DNAの遺伝暗号が、ウィルスやバクテリアから人間にいたるまで、地球上すべての生物に共通している。これは人間も動植物も微生物も兄弟姉妹だという意味。
※ 生命の世界そのものが、物質世界、つまり物理や化学の世界を基本として成り立っているのだ。
※ 今、私たちは、「人間とは何か」をわかっていない。「生物とは何か」さえもわからない。あらゆる生物の生命には、どんな意味があるのか全くわからないのだ。
※ ニューヨークのスズメをサンフランシスコで育てると、サンフランシスコ的なさえずりのスズメになる。スズメにも方言があって、場所が違えば言葉も違うという。
※ 人間のみならずほかの生物も、種々の環境によって影響されるわけで、遺伝だけでは決まらない。精神や心はむしろ環境によってつくられていくと見たほうがいいだろう。
※ しかし、生は虚無かもしれない。生まれてきたことに意味はないのだから。死ぬことにもやはり意味はない。人生そのものが、夢のまた夢かもしれない。
※ 人間は、能力以上の夢をみることはできない。
※ なぜ、死ぬか。それは、宇宙が死に向かっているからだ。銀河も星も惑星も、すべてが死に向かうなかに、人間の営みも、文明もある。
※ では、なぜ生きるのか。それを探るのが、今、地球上に死ぬべくして生まれてきた、われわれ人間なのである。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜53)
6/26(みず)旧5/4(みずのえ とら)
こ(子)読
アイツが逝った
六月二十三日、五十七歳、胃がん
「アイノコッ!っち言っていじめていたあのカツミが死んだっち、今日の
夕刊に載ってた!」
昨夜、神戸にいるワンのカミさんのアニキから電話がはいった。
カツミとアニキは名瀬の金久中学校での同級生。
ワンの一つ下の後輩だ。
確かに小中学校時代(1,960年代のころ)、校内にはオキナワから渡ってきたハーフ(愛の子)たちが多くいた。
オキナワの基地経済を通してアマミはアメリカやフィリッピンと混血を重ねていたからだ。
・・・・・・
カツミはトクノ島の母とルソン島の父のDNAを授かって一九五一年、オキナワ島のウラソエに産まれた。
アマミノオオ島(名瀬市)の港町で親子三人で暮らしていたが、八歳のときハンサムな父は忽然と姿を消した。
十五歳で美しい母にも旅たたれ(胃がん)、カツミは上阪してプロボクサーになった。
が、気が弱く、あきらめて写真界へ。
カツミのテーマは一貫して社会のネガ世界だった。
・・・・・・
1982年、大阪・釜ヶ崎を主題とした個展『露地流転』を開催(キャノンサロン:大阪・銀座・広島/大原画廊:奄美大島)。
1980年、ワンは奄美大島に戻っていて、大原画廊のカツミと目があう。
意気投合して、名瀬の路地裏や奄美病院にいた
アカマントを撮影に行ったりした。
当時のアカマントの手記や写真はワンのタカラモノ(いつか発表)だ。
それが縁で、カツミの大阪のイエで飲んだり、カツミが島に戻るときにはヤンゴで飲み歩いた。
野太い風体とはうらはらに、カツミはとてもやさしく、ナイーブなアーティストだ。
カツミのシンプルで豊穣な写真と文章力にはボディーブローのようなパワーがあった。
1986年、
写真集『漂う島 とまる水』で第15回
土門拳賞に輝いたとき、ニコンサロンにシマグチの祝電を送った。
奄美文化センターでの作品展のとき、地元紙に寄せた拙文を喜んでくれた。
あれから、おまえはオキナワ島を拠点に旺盛に発信していた。
ブックオフの100円本にいたく感謝していて、「ファミレスで毎日、濫読!」していたやぁ。
オキナワに行く前には、ナゼで「画廊兼ショットバー」をやりたがってた。
・・・・・・・・・
出会って、27年か。
「今年からアマミヲトルゾォ!」
おまえは、突然現れ、奄美大島で終の棲家を探していた。
宇検村のとあるシマ(集落)に畑付きの家を借り、改造して三人家族で暮らす準備をしていた。
「シン、遊びに来いな!やっと引越しよ!」
思えば、つい、ひと月前にもモデル業の娘さんと立ち寄ったばかりではないか。
痩せ細り、肌はさらに浅黒く、頭には厚手の毛糸の帽子を被っていた。
別れぎわに「飲もうやぁ!」と言ういつものヒョーキンなまなざしもなかった。
こんなに早く・・・あっちのシマへ・・・?
「カツミのアマミ」をミたかったのに
・・・・・・
きょうは、おまえの
『漂う島 とまる水」』を一枚一枚ひねもすながめている。
いただいた額入りの写真、「表2 特飲街の入り口(辺野古)」に香を焚く。
「漂う島」とは、おまえとおれたちが泳いでいるこの浮世(「シマ宇宙」)のことか?
「とまる水」とは、この浮世(生死)をハラんでいるあの時空間(「島宇宙」)のことだったのか?
えっ、ちがうっ?!
たぶん、むこうの「しま(シマ&島)」で、思いのたけ睦んでいるのだろうやぁ、親子水いらずで。
と〜と〜がな〜〜し〜〜〜の〜カツミ・スナモリがなしへ
!
PS:今日(6/28)、お前(のホネ)がTOKYOからt南の海の道を通って、こっちのSIMAに還ってきた。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜52)
6/17(みず)旧5/25(みずのと み)
こ(子)読
▼ 南海日日新聞(6月14日付)の「薩摩侵攻400年企画 大江修造VS調所一郎」
「対談 調所家と田畑家、その功罪と展望」を読む。
見出しには、「黒糖は明治維新の原動力」
「『黒糖と維新』を教科書に」
「サトウキビ資料館の建設を」。
二人の論旨は上の見出しに尽きる。
それを象徴するのが、次の言説だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▼ 調所一郎:>自営(コンサル)業。1,960年生まれ。薩摩藩の財政再建に尽くした調所笑左衛門広郷から7代目。
>たまたま、薩摩の琉球・奄美侵攻400年が騒がれていて、薩摩と奄美とのかかわりの始まりが侵攻400年だとしたら、最後はやはり幕末から明治にかけての砂糖絡みのもろもろの事だったと僕は考えています。
島津家の侵攻から始まって最後はサトウキビ。薩摩と島津と奄美の関係、始まりと終わりはそこにあります。
「奄美が犠牲になった」という言葉を使うよりも、「貢献した」とか、「役に立った」、「おかげで」という言葉を強調して使うほうが未来志向になると思いますね
きょうの僕の最大のテーマは、薩摩侵攻400年が入り口で、出口は完璧にサトウキビなんですよ。入り口だけ話をしてもしょうがないので、奄美と島津の関係が入り口だとしたら出口はサトウキビ。そのことをきちんと検証しないと尻切れトンボですね。 |
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▼ 調所さんと大江さんよ!あんたらねぇ、明治から現在まで奄美がひきずっている鹿児島との諸問題は何もないとマジ思ってんの?
あんたの先祖たちが仕組んだ幕末から明治にかけての黒糖地獄だけが薩摩侵攻400年の最後の出口だって?!
あんまりおふざけた歴史認識をひけらかすんじゃぁねぇよ。ったく!
あんたら鹿児島人のアイデンティティはなにもかもが19世紀の明治維新で終わったんだろうけど、
21世紀の奄美では未だにあんたがた鹿児島と奄美のお役人たちのための「植民地状態」が、現在進行形なもんだから悪戦苦闘し続けてているんだよ。
そんな奄美の現状が、首都圏生まれ・育ちのあんたがたにはなんにも見えないんだろうねねぇ(ったく)。
「奄美の植民地状態」の中身?
黒糖収奪のあともねぇ、明治から戦前まで半世紀以上も続いた戦前の「大島(郡)独立経済」のことだけじゃぁないんですよぉ。
それにうち続いて、復帰後、現在も奄美の諸島で展開されている「鹿児島県による奄美の資源と文化の止むことなき収奪」のこと。
「資源の収奪?」→アマシン(土建工事にしか使えない国内版ODA)を悪用した奄美諸島のあらゆる環境破壊と利権獲得。
「文化の収奪?」→水田の滅(減にあらず)反政策、黒砂糖作りから大型製糖工場へ、大島紬の外国産地化など地場産業衰退による人口減→しまぬ世(しま文化)の衰退。
出口は幕末から明治にかけてのサトウキビ(だけ)の収奪だけじゃぁないの。
ぼくらは、鹿児島からの出口を求めて、今もひたすら四六時中、四苦八苦してるのよ。
文化の中には精神的な収奪ももちろんはいってるし、これが一番の収奪なんだよ。
あんた方、歴史上の責任ある人物の子孫を自負して乗り込んでくるんだったら、
奄美と鹿児島にはりめぐされている近現代史における植民地支配の中身ぐらい少しはおさらいしてきたら?
とにかく、あんた(調所&田畑)らの無知・無責任さかげんには開いた口がふさがらん。いや閉口だ。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ 大江修造:>東京理科大教授。1938年生まれ。龍郷町二世。母方の先祖は琉球19代尚稷王の孫を始祖とする田畑家の一族。薩摩藩の奄美侵攻時には第5代当主為転。偉業で知らている田畑佐文仁(為辰)は薩摩藩から郷士格を最初に与えられる。
>私の母が田畑家で長い間奄美の支配にかかわってきたわけです。
私は、「奄美の砂糖が明治維新に貢献した」の一行を義務教育に教科書に載せるべきだと思います。節目のこの機会を利用して全国に広がれば、薩摩も奄美もハッピーですよ。
圧政と言いますが本当の圧政は幕末の40年ぐらいですね。その前は薩摩と結構仲良くやっていたと思うんですよ。
名誉のために申し上げると、先祖はみんな佐文仁、佐文主と呼ばれていました。圧政に組したかもしれないが、奄美の人の事を考えていた。一種の尊敬の念が含まれているようにも思います。百パーセント圧政に組していたわけではなく、いろいろ思いやりもあったと思います。
薩摩と奄美の関係で言えば、奄美は搾取された側で黒糖地獄があったのは事実。わびる必要はないですが。
調所一郎:
|
>
ごめんなさいを言わなくても、
ひどいことがあったのは事実。それは負の部分として認識しています。
さらにそれを未来につなげるには感謝ですよ。
感謝の上で未来につなげないと。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ おいおい、あんたがた二人ねぇ、奄美や鹿児島で今現在、いったいどんな分際でしゃべってんの?
ひとこと、ミグルシイ。
「わびる必要はないですが」とか、
「感謝の上で未来につなげないと」だって?なに、それ?
そんな重要でばかげた歴史認識を示す資格があんたがたの存在のどこにあるの?
「詫び」ないで、「感謝」なんかされて、誰かが感謝状もらったってただの紙切れ、なんの足しにもならないの。
感謝されて、奄美と鹿児島の関係性や現実の諸矛盾が解決されるのかい?
そもそもだれが、だれに感謝するというのかい?
薩摩の(旧・現)支配者が、奄美の(旧・現)島役人たちに?
その理由は?責任は?今後の関係は?
黒砂糖その他で苦しみ、今も潤っているのはどこのだれ?
鹿児島と大島のシマ役人と取り巻き連たちだろうが。
「わび」や「さび」などでお茶をにごされる問題ではないんだよ。
奄美と鹿児島の関係の出直しこそが必要なの。
そのテーブルについてもらうのよ、今から。
「明治維新の原動力?」を「教科書へ記述?」して、「サトウキビ資料館?」つくってお蔵入り?
現在の問題はそこからが始まりであって終わりじゃぁないのぉ、もっと、責任ある発言してよ!
いや、犯罪的な言辞を上から目線で奄美の島人をもてあそぶんじゃぁないよ!
しかしねぇ、あんたがたわけの分からん民間の無責任人(私人)たちにいくら激怒(議論)したってしようもない。
だから、こちとら別の切り口をシアン中。
400年前から現在までの責任ある回答(現状認識)を奄美内外の当局に求めていくのよ。
一番の問題は、現在の奄美の人たちと鹿児島の人たちとの400年間の歴史認識のミゾの深さだよね。
そこを埋めて突破するにも、400年問題の所在は、やっと今年入り口にたどり着いたばかりの状況なんですよ。
まずは奄美の地元からだが、これまた道は遠い・・・が、気負わず地道にしかけていくしかない。
でも、まぁこうして生きているうちに、なんとか400年間の入り口(出口じゃない!)にたどりつくことはできた。
念ずれば通ず。
沖縄(琉球)と奄美との悠久の史的関係も同時進行で進めていきたい。
(^ム^)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー(鎮魂譜51)
6/13(つち)旧5/21(つちのと うし)
▼ きょう、「奄美市生涯学習講座」(3〜40人参加)にいってきた。
時・所:名瀬公民館金久分館、(6/13、14時〜16時)
題 名:「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」
講 師:薗 博明
テーマ:「島津侵略400年を迎えた奄美のシマと島」
薗さんには、パネラーとして、沖縄での
「「薩摩の琉球支配400年」で熱い議論」、
また、先週6月3日に開催された鹿児島市(宝山ホール、800人参加)の催しに続く三度目の発表(か?)。
奄美での講演も、鹿児島市での
「第30回 鹿児島県 人権・同和教育講座」での講話(90分)でのレジメとほぼ同じ内容だという。
テーマ:「薩摩藩奄美侵攻400年から見る現在の奄美問題」
奄美大島と徳之島でのご自分の動きをもとにして、
奄美の歴史と文化からいかに島の誇りを構築する(してきた),か、という内容だった。
新鮮だったのは、「シマさがし」という薗さんの概念と、
鹿児島で親しいPTAの男性から「日本に拾ってもらったくせに!」と言われた奄美出身の女教師の話。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ 今日は、旧暦の5月21日。
旧暦の3月7日といえば、400年前に薩摩軍団が奄美大島の笠利湾に侵略した日。
それから、ひと月半後の400年前の5月19日は、琉球国王・尚寧が大島の宇検(部落)に到着した日。
一行は、ちょうど四百年前の今日!(5月21日)宇検集落を出発し、同24日には鹿児島は山川の嶽下に到着している。
沖縄の今帰仁(運天港)から二泊三日で大島の宇検へ。宇検で二泊。
大島の宇検から三泊四日で薩摩半島の山川へ至っている。
運天港から山川港まで計七泊八日の行程だが、詳しい記述は管見ではわからない。
これを
『喜安日記』から少し引いて見る。
訳は、池宮正治氏。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
五月十七日に今帰仁により、ともづなをとき出さんとす。
主上の御舟を始め参らせ人々皆船を出す。
首里を出し程こそなけれども、是も名残は惜しかりけり。
同十九日大島宇見(ウケン)の湊に着ぬ。
崎原勢頭宿所皇后になる。
三日御逗留有て人々加階す。
江曽親雲上・安室親雲上・御鎖子傍、座敷給る。
喜安、佐事坊主座布給ふ。
崎原勢頭赤八巻頂戴す。
同二十一日、天晴気清て追手の風ふきければ、御所の御船を始参せて人々船共皆漕出す。
雲の波えんの浪を分しのがせ給ひて、同二十四日に薩州山川の嶽下に付せ給ふ。
雨しきりに降ぬ。
同二五日、其より山川へ入らせおはします。
御仮屋しつらはれたりしかば行幸なる。
六月三日・・・(略)・・・
同二十三日・・・(略)・・・鹿児島へ着せ給ふ。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
この中の大島・宇検の記述は、七行。
同十九日大島宇見(ウケン)の湊に着ぬ。
崎原勢頭宿所皇后になる。
三日御逗留有て人々加階す。
江曽親雲上・安室親雲上・御鎖子傍、座敷給る。
喜安、佐事坊主座布給ふ。
崎原勢頭赤八巻頂戴す。
同二十一日、天晴気清て追手の風ふきければ、御所の御船を始参せて人々船共皆漕出す。
近く
「崎原勢頭」と「赤八巻」について調べてみる。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂譜50)
6/2(ひ)旧5/10(つちのえ とら)
あっ!というまに六月。
この五ヶ月間は例年になく充実していた。
一六〇九年から四百年を問う動きが「日本」の各地で始動したからだ。
我々「三七(みな)の会」が一六〇九年問題を打ち出し始めて十三年。
何も足さない、何も引かない
ひたすら、「しまぬ世(ゆ)」を追求していく。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂譜49)
5/25(つき)旧5/2(かのえ うま)
こ(子)読
▼
『飛礫(つぶて)』63号に原稿を送った。
6月の発刊予定だ。
以下、掲載する
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
『飛礫六三号』原稿。ゲラ校正済み 六月八日→最終六月九日号
「しまぬ世元年へ!」―奄美諸島からー
▼ 二〇〇九年七月二十二日、奄美の近辺では二十一世紀最大の「皆既日食」がある。
また、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡で宇宙への扉を開いて四百年、今年は「世界天文年」という。
「日本国」で一六〇〇年といえば「関が原の戦い」だが、一六〇九年は?
・・・即答できる「日本人」はあまりいない。
「日本国」の歴史教科書は、「薩摩藩(徳川幕府=日本国)の奄美・琉球国の侵略(征服)」という史実にフタをしてきたからだ。
▼ 一六〇九年の旧暦三月七日、島津軍団三千人が琉球国内のサンゴ礁の島々を侵略した。
火縄銃の火蓋が奄美大島北部の笠利町は津代の地で切られたのだ。
「南島人」にはまさに天下分け目の戦いだ。
その時の遺骨群が津代の裏山に今もひっそりと葬られている。
そこで、我々「三七の会」は一九九七年から毎年、鎮魂の寄合をしめやかに重ねてきた。
今年は四百年の節目に当たる。
が、我々はことさらなコトはしない。
一六〇九年を軸として日々永劫に「しまぬ世へ!」深化させていくのだ。
それでも、四月十二日の慰霊祭には内外から百人近くが手弁当で駆けつけた。
いつもは二十人前後だ。
旧笠利町の朝山毅町長も初めて参列し、行政の無策を詫び、今後の対応を約束した。
鎮魂のあと、笠利町の青壮年たちが親先祖愛したちへ「八月踊り」を奉納した。
手花部公民館の「津代で四百年を語る会」では熱い議論が飛び交った。
すべて予期せぬ画期的な成果だった。
一六〇九年を軸にすることで、今後は笠利町の島人の一人ひとりが「しまぬ世創り」の自治的主体になればいい。
我々が創る歴史は未来からやってくる。
▼ 五月二日は、徳之島で「薩摩藩奄美琉球侵攻四百年記念事業・未来への道しるべ」(事業費百万円)があった。行政主導による、鹿児島(原口泉)、奄美大島(弓削政巳)、徳之島(幸田勝弘)、沖縄島(金城正篤、高良倉吉)から研究者を迎えてのシンポジウムだ。
吾はこの手の歴史解釈的「ガス抜き事業」には興味がない。
一六〇九年を軸として、現在の徳之島人が鹿児島県・日本国・琉球弧との関係にどう向き合い、切り結んでいくのか、それこそが問われるべきだからだ。
それでも、急きょ、船で参加したのにはわけがあった。
沖縄大学地域研究所の緒方修所長が昨年十一月、吾を訪ねてきた。
二〇〇九年の催しを「三七の会」と共催でやりたい。
ついては、井沢元彦(「新しい歴史教科書をつくる会」メンバー)に基調講演を頼んだ、という。
当然ながら大喧嘩になり、破談。
その後、彼は徳之島町に琉球国の尚家と薩摩藩の島津家の当主二人を招いて握手させようという、これまたトンデモ企画を持ちこんだのだ。
しかし、尚家が応諾せず、島津家の当主だけお忍びで参加するらしい。
我々は、抗議の申入れを徳之島町当局へ送った。
その模様を南日本新聞(鹿児島)の「記者の目」(五月十九日付)から引用する。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
シンポは「未来志向の新たな関係を築こう」との意見が相次ぎ、盛況のうちに幕を閉じた。
その一方でスタッフらは気をもんでいたという。
当主のあいさつ中止を求めるメールなどが寄せられていたからだ。
メールの趣旨は「民衆の歴史を旧支配者のあいさつで幕引きされては困る」というもの。
反対者の一人は「藩政時代の黒砂糖収奪の構造は今も変わっていない。
四百年の歴史は民衆側から総括すべきだ 」と主張する。
わだかまりやしこりはない方がいいが、四百年の歴史認識は一筋縄ではいかない。
県の施策や方向性に反対の立場から見れば、「薩摩(鹿児島)はまた奄美を苦しめている」と考えるのも分かる 。島人の無意識の声を含め、多様な意見に耳を澄ましたい。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
吾は、当日の懇親会場で島津修久氏にサトウキビ八本(奄美の有人八島分)の束と、吾からのメッセージ「しまぬ世へ!」と、『しまぬゆ』(義富弘著)、『奄美自立論』(喜山荘一著)を手渡した。
「これらを熟読玩味して、出なおして来い!」という我々からのお土産だ。
▼
五月十六日は、沖永良部島に上陸した。
「琉球侵略四百年シンポジウム <琉球>から<薩摩>へ 〜四百年
(一六〇九〜二〇〇九)を考える〜」(事業費、七十万円)。
吾は、「ゆいまーる琉球の自治イン沖永良部島」に参加して、奄美大島からの報告をした。
交流会のあと「薩摩(大和)の奄美・沖縄植民地支配四百年を問う訴訟」の可能性などについて懇談。
実は、これが沖永良部島行きの真の目的だった。
松島泰勝さん、竹尾茂樹さんたち、また上村英明さんからは適切なアドバイス(メール)をいただいた。
今後、可能性を探っていきたい。
翌十七日はシンポジウム。
パネラーは、富山和行(沖縄島)、高橋孝代(沖永良部島)、弓削政巳(奄美大島)、原口泉(鹿児島)。
翌日の南海日日新聞(奄美)には、「歴史観の再構築を」という大見出しが出ていたが、いったい、誰がどのようにして再構築するというのか?!
▼ 今年は沖縄・鹿児島・東京などでも一六〇九年をめぐる催しゴトが続く。
嬉しい限りだ。世紀の皆既日食がある今年を仮に「しまぬ世元年」として、次なる「しまぬ世連合」への新しい扉は、我々一人ひとりが開いて行くしかない。ガリレイのように。
「三七の会」事務局・森本眞一郎
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂譜48)
5/19(ひ)旧4/2(きのえ ね)
こ(子)読
▼ きのう(5/18)、沖永良部島からもどった。
行きの船では、鹿児島から乗船した
杉原洋(鹿大)と
向原祥隆(南方新社)と。
帰りの船では、宇検村の
新元博文も合流。
20年ぶりの沖永良部島だったが、
変わったものは、あちこちのリーフをこわして造成されている
ばかげた巨大な漁港群だ。
現在、600億円の
地下ダム事業も進行中である。
町田建設のお膝元だけに
観るも無残な公共事業で海も岡もコンクリートで埋め尽くされていた。
まだまだ続く、「奄美群島侵攻開発特別措置法」。
いつまで続く、「国内植民地法」。
もう、声を上げるべき時ではないか。
午後からは、
「ゆいまーる琉球の自治」の集いに参加した。
沖永良部島の農家・商業者などからの報告があった。
「
道州制」を巡る議論では、鹿児島よりは沖縄へのメリットを地元から多く出されたが、
コーディネーターの
松島泰勝さんと
藤原書店の
藤原良雄社長が、
「琉球につくのなら、米軍基地を引き受ける覚悟が必要だ」
「近いということだけで沖縄に付くだけではダメ。
一人ひとりの自治意識が高まらない限り、なんらメリットはない」
と釘をさしたが、ワンもそう思う。
夜の交流会には、翌日のシンポジウムのパネラーたち、
原口泉(鹿大)、弓削政巳(奄美)、高橋孝代(沖永良部島)、豊見山和行(琉大)も。
交流会の後に、数人で「400年訴訟」を議論。
中でも、
竹尾茂樹さん(明治学院大学、国際平和研究所長)とまみえることができたのが収穫のひとつ。
先日、メールでアドバイスをいただいた
上村英明さん。
この運動の中心になる
松島泰勝さん。
残念だったのは、沖縄から前日はいっていた
高良勉がすれ違いで沖縄にもどったこと。
奄美側の事務局を担って欲しい
前利潔が関心を示さなかったこと。
まぁ、問題提起は始まったばかり。
戦略を綿密に立てて、可能性を探り、態勢を整えることがこれからのサバクリになる。
^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ 翌日の午前中は、島内の歴史や文化の研修(?)
午後からシンポジウムだったが、
沖縄からきた村山?さん(♀)と新元博文とワンの三人はパスして、
「旬香」で座談会。
そこが、夜の懇親会場でもあったが、轟沈。
二次会はスナックに10人以上集まった。
「400年訴訟」のことを問題提起したのだが、
鹿児島の杉原と向原以外は無関心そう・・・
先は多難だが、やるっきゃない。
御用学者がたの歴史解釈にばかり付き合っていては、してやられるだけだ。
1,609年と 2,009年の向こう側へ!
常にいつもスタートラインだ。
歴史は未来から。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂譜47)
5/15(かね)旧4/21(かのえ さる)
こ(子)読
あす、朝5時の船で沖永良部に行く(たぶん)。
到着は12時ごろか。
2009年関連の一連の催しだが、
松島さんと
喜山さんに詳しい。
急遽、行くことになったのは、
薩摩・ヤマトが奄美・リュウキュウを植民地支配して400年!
今年は、そのことを問う催しが、おちこち(遠近)で展開している
それを今後どのように発火し、まとめてていくか、がワンのテーマ。
御用学者たちの歴史解釈はおいといて、
「植民地支配」という史実を日本政府に認知させることが、肝要だ。
そのためには・・・?
1960年に国連で採択された「民族自決権」を盾にして、
国際司法裁判に提訴すること
を数人で相談するため。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂譜46)
5/14(つち)旧4/20(つちのと ひつじ)
こ(子)読
「薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業」(5/2)の続き(3)
▼
翌日(5/3)は、
闘牛大会
徳之島で闘牛を見るのは30年ぶりだ。
あの時は船で酔っ払ったからあまり記憶がない。
いやぁ、今回はむ〜る感動したっ!
10時から13時までの
10本勝負
特に印象に残ったのは結びの一番。
注目の
全島一・中量級優勝旗争奪戦
徳之島台風(チャンピオン)VS
コウダ技電龍王丸(前横綱チャレンジャー)
あの名勝負一本だけでも3000円の価値があった。
奄美大島から日帰りだと1万円の旅費だが、その価値も大いにある。
下手な解説はしない、まさに、一見は百聞にしかずだからだ。
全国の闘牛大会の歴史が知りたくなってネットウェーブしてみた。
『南総里見八犬伝』の滝沢馬琴が江戸時代に
新潟県の
山古志村の闘牛を見た描写もすごい
沖縄では明治以降ということだが、「?」。
徳之島は500年
沖ノ島では、800年
韓国は、1000年という。
あと、インドネシアのジャワ島と
ヨーロッパのスペイン・ポルトガル・スイスに闘牛文化が栄えている。
しかし、これだけでは納得できない。
そこで、やっとぶちあたったのが、
東アジアにおける闘牛と「周辺ー周辺のネットワークの形成」という優れた研究論文だ。
鹿児島大学のグループ研究だが、徳之島での現地調査を中心にそえている。
闘牛の文化と歴史については、おそらくこの論文が一番詳しいのでなかろうか。
この中で、ワンが一番注目したのは、中国における闘牛文化だ。
雲南省(イ族)と貴州省(ミャオ族)などで盛んという。
ここは、非漢民族たちで、焼畑や牧畜文化地帯だそうだ。
つまり、稲作文化地帯である漢民族の周縁や辺縁に位置する少数民族たちの文化なのだ。
日本の六県でも韓国でも周辺に闘牛文化が残っている。
そう、
まつろわぬ民たちの神事・祭祀文化だったのだ。
沖縄が明治になってから盛んになったというが、
近世紀の琉球王朝文化は中国(漢民族)化したから抑えられていたのだろう。
それが、
近代にはいって、王朝文化の権威が消滅して、
島民文化が復活したのかもしれない。
ところが、奄美諸島では400年間も薩摩(ヤマト)の支配下にあったので、
シマウタや八月踊りなどと同様に闘牛文化も活き続けていたのだろう。
貴州省の
ミャオ族の闘牛は正月にあり、一年で最大の行事だそうだ。
相撲、弓、競馬、闘牛が4大行事だそうだが、
奄美でもお祭りには、相撲と競馬と闘牛があった。
弓は知らないが。
それに徳之島の闘牛は現在も1、5、9月に行われている。
この月は、奄美では神月といわれている月だ。
やはり、豊年の祈願や感謝の祭事だったのろう
という風に、闘牛を通して、壮大な構想へと根っこ探しはふくらむばかりだ。
また、イ族や
ミャオ族と奄美の文化の類似性(
ウタガケや
染織など)もいろいろあるのだが、
これは、そのうち。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▽
もうひとつ、感動したのは、子どもたちの参加の仕方。
柵の一番前にはカメラ陣(大人)と子どもたちが陣取っていた。
牛の登場と退場の際には飼い主の一族の関係者たちが大挙して祝うのだが、
その半分は子どもたちで、
幼子を抱えた母親たちなのだ。
ラッパを吹き、太鼓を叩き、幟(のぼり)を振るのはみんな少女と少年たち。
勝った牛の背中に乗ったり乗せたりして
「ワイド!ワイド!」を歌い踊りまくる狂喜の舞台。
中には、亡くなった一族の遺影を掲げて共に祝う人たちも・・・
また、
勢子の大方も青年たちが仕切っていた。
徳之島三町は日本の
子宝ベスト三だが、
ほんとに、そう実感した。
乳母車での若い母親もたくさん見かけた。
牛を中心に一族郎党が助けあいながら暮らしているのだろう。
徳之島ワールドの
ナクサミ世界だが、
すごい!
ほんとにスゴイ!シマ文化だ。
来年から、毎年通う破目におちいりそう・・・な予感が!・・・
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂譜45)
5/11(つき)旧4/17(ひのえ たつ)
こ(子)読
▼きのうは母の日で、夏の盛りの奄美日和
環境ネットワーク奄美の呼びかけで
、奄美の海亀の観察会。
我が家の七人家族も今春からはたったの三人で・・・
龍郷町は戸口のアウン浜と加世間(かしけん)の間にある
リーフの上の道路から海亀を観てきた。
アカウミガメとアオウミガメ(とタイマイ?)が3〜5匹泳いでいるのを
肉眼と双眼鏡で観察。
初めての光景に大感動!
この季節、産卵のために
奄美の海辺やってきたウミガメたちは、
五月から八月の間、
リーフ内で食餌して産卵するそうだ。
子亀たちは、四十日から五十日間後に孵化したあと、
黒潮に乗って太平洋を渡りアメリカ大陸の西海岸(メキシコ)に至り、
そこで、数年間過ごした後、
それぞれの生まれ故郷(シマ)に産卵のために還って来る。
なんとも、スケールの大きい
回遊空間と時間だ。
そういえば、鮭やウナギや鯨なども
スケールは違うがそれぞれのシマに還るのだった。
ある種のチョウ(鳥や蝶)もそうだが、
人はどうだろうか?
渡世人!
▽ その後、アウン浜で末娘の美祝子(14)と泳いだ。
お昼、覗いたときには大潮のため数十人のイザリ(漁り)ンチュたちが、
リーフ上を歩いていたのだが、潮が満ちて一人もいなくなっていた。
プライベートビーチの浜と海につかり本当のタラソを満喫した。
▼ 夕方は、母の日のお祝いに下方方面へ。
いつも、通っている大浜のタラソからではなく、
19時、大浜の丘の上の駐車場から、真紅の夕陽を堪能した。
『ブルータス』今年の1月号でサンセットビーチ・日本一になっていたポイントだ。
古代から太陽を拝んでいた気持ちが分かるのと同時に、
最近、朝日を拝んでいないないことに気づいた。
近く、土盛(ともり)の浜に行って拝んでこよう。
▽
しかし!
太陽や月や神よりも大事な存在、
それは、
土盛生まれのワンのおっかん・マツコがなしと
万屋(まにゃ)生まれで(美智子トゥジガナシのお母さんの)キサエがなし。
大正4年と大正10年生まれの六つ違い
ワンとトゥジも六つ違い
ということは、
二人とも同じ年齢(35歳)の時に私たちトゥジュトゥ(夫婦)を産んでくれたんだ。
きょう、初めてそのことに気づいた。
二人を拝みにサンギャマの「虹の丘」(老人介護保険施設)へ。
二人ともに元気であることにココロからの感謝を捧げてきた。
長生きしんしょれよぉ!
おぼこり!
おぼこり!
おぼこり!
御誇り!
恩送り!
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂譜44)
5/9(つち)旧4/15(きのえ とら)
こ(子)読
「薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業」(5/2)の続き(2)
▼ 開会式の挨拶は、実行委員会会長の高岡秀規・徳之島町長
「歴史に、『もし』は禁物だが、薩摩藩が来なかったら、
現在の奄美・沖縄は、中国の領土になっていたかもしれない」
と、のたまわれた。
なるほど、明治12年(1979年)の琉球処分のとき、
清国政府からニ分割案や三分割案があった。
二分割案は、沖縄諸島以北を日本国帰属、宮古・八重山諸島を清国帰属とするもの。
三分割案は、「北島」(奄美諸島)を日本帰属、
「中島」(沖縄諸島)を琉球王国として復活させ、
「南島」(先島諸島)を清国帰属とするものである。
さらに、明治41年には
「南洋道」設置計画が帝国議会に登場した。
これは、沖縄諸島(与論と沖永良部を含むという)を植民地の台湾総督府の管轄にしようというもの。
日本国の沖縄切捨て策、沖縄側の日本へのすりより策があぶりだされたものだ。
いずれも、陽の目をみなかったが、「もし」薩摩藩の侵略がなかったら、
琉球列島は島嶼は、現在の台湾や東南アジアや太平洋諸島のように
ひとまとまりのグループ(国)になっていたかもしれない。
高岡会長の発言は、薩摩の侵略を問い続けている我々への脅しであり、
島津家へのすりよりなんだが、
逆説的に彼の発言をもとにして議論を深めたら、
「奄美・琉球・400年向こうの道しるべ」を問うための
一つの問題提起としてとらまえることもできるのだ。
そういう意味では、おもしろい発言(挑発)だと思った。
^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼
次に登壇したのは、徳田毅(たけし)・鹿児島二区衆議院議員。
その次は、金子益男・鹿児島県議会議長。
その次に、島津修久・島津家三十二代当主。
地元、徳之島の町長と、国会議員と、県議会議員たちが、
島津の殿様の
露払いをするという段取りであった。
島津家の出自は、新羅の秦氏で天皇族に近い筋。
その、露払いを奄美の
猿田彦どもが演じたのだった。
▼ 一時間の基調講演をした
弓削政巳氏。
彼の言いたいこと(着地点)の焦点が定まらず、物足りなかった。
一つだけ、新鮮だったのは地名の変更について。
明治21年の
国土地理院の陸地測量部条例によって、
奄美諸島にあった同じ地名が変更されたこと。
例えば、徳之島の「秋徳」(薩摩との戦場地)が、「亀徳」になったのは、
カケロマの「秋徳」を優先したから。
徳之島町の「久志」(神之嶺)が、「下久志」になったのは、
奄美大島の「久志」(宇検村)を優先させたから。
また、与論島の「瀬利覚」(沖縄の勢理客・じっちゃく)が「立長」(りっちょ)になったのは、
沖永良部島の「瀬利覚」(じっちょ)を優先したからという。
小さい島のシマ名が、大きい島のシマ名を優先させるために犠牲になったそうだ。
地名にまで、本島(大)と離島(小)の権力構造が反映されていることには驚いた。
これだけは、ひぇ〜!だった。
あとのことは、講演の事前に弓削政巳氏ご本人から大島でうかがっていたからだが。
▼
パネラー(
原口泉・
金城正篤・
高良倉吉)たちの内容は、なんにも耳に残らなかった。
むしろ、怒りだけ。
地元の幸多勝弘氏のみ傾聴に値したがここでは割愛する。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼
懇親会も大同小異
というより、ここにこそ本シンポジウムの本質が露呈していた、といえる。
開会の挨拶は、鹿児島県議会議員の禧久(きく)伸一郎(宇検村・宇検出身)。
徳田派(現自民党)で大島郡区選出の一年生。
「奄美の糖業生産高は右肩上がりで、今年は百億円を越す勢い。
これも、歴史(薩摩)のおかげ・・・」
と、のたまわった。
土地改良事業や道路(トンネル)、港湾・ダムなどのために復帰後56年間で
二兆円もの基盤整備費を投資して奄美の資源を収奪してきたのだが、
費用対効果の採算はとれているのか。
百億円のうち地元農家の手元に残る純利はいくらになるのか。
疑問は尽きない。
薩摩の殿様にすりより続ける島役人たち。
四百年間、奄美支配の構造は1cmも変わっていないのだ。
閉会の万歳(まんざい)三唱は、
地元出身の元教員でサブラガネ(当時の徳之島の支配者・琉球王府派遣の中央官僚)の子孫である吉岡さん。
吉岡さんは、我々「三七の会」の津代のゆらい(4/12)にも徳之島から参会してくれたカタ。
しかし彼は、徳之島シンポの当日お昼ごろ、
島津修久氏を秋津神社にお供してきた猿田彦氏でもあった。
「歴史を超えて、今日という日を未来への道しるべとしよう!」
で、チョン!
っちぃ、ぬーよぉ、うりやぁ?!
どうやって歴史(現実)を超えるんだよ!
四百年間の総括をそれぞれの現在の地点から問わずして、
お茶を濁して、水に流せると思っているのか?
やはり、
島役人や御用学者たちの歴史的責任は重い!
と痛感させられたシンポジウムと懇親会だった。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂譜43)
5/4(つき)旧4/10(つちのと とり)
こ(子)読
▼きのう、徳之島からもどった。
「薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業」(5/2)を見届けるため。(1)
当日の講演会やシンポジウムなどには全く興味はなかった。
発表者の中で、聞きたかったのは唯一、地元の幸多勝弘氏の意見だけだったし、
実際、当日の登壇者の内容もその通りだった。
もし、幸多さんの発言がなかったら、
ナンセンスの極みのシンポジウムだったからだ。
が、急遽、徳之島入りしたのには重要な意味があった。
島津家32代当主の島津修久(71)が、徳之島で挨拶をするとの裏情報を得たからだ。
挨拶の内容を自分の目と耳で確認しておく必要性があった。
当日の内容については、
この問題を深く追求している、
喜山荘一さんと
松島泰勝さんの
ブログを参照していただくとして、
マスコミには決して載らないネタを三つだけ紹介する。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ 一つは、シンポジウム前の「
秋津神社の境内」でのこと
奄美大島から徳之島入りした私たち4人は、お昼過ぎにお参りして、
新元博文の祝詞で慰霊祭を執り行った。
笠利町は津代の戦跡地で13年間やってきたことを、
ここでも同じようにやっていた。
塩と黒砂糖と黒糖焼酎をお供えして
400年前に島津軍との戦闘でなくなったという両軍350人の御霊に
深く慰霊の鎮魂を捧げた。
と、そこへ、
原口泉氏(当日のパネラー)が例のニコニコ顔でやってきたのだ。
当初、驚いた様子だったが、こちらへ近づいてきた。
初対面なので、「森本です」とだけ挨拶した。
「あー、あの本屋の森本さんですか」とだけの応答があった。
と、そこへ、今度は、
島津修久氏が参内してきたのだ。
私たちは、挨拶などせず、距離をおいた。
神主の案内で彼がお参りするのを観察した。
彼は、私たち普通の人間たちが、お賽銭やお供えなどをして、
「とーとがなし」をするようなことはしなかった。
神主に命じて、社殿正面にある
お賽銭箱やお供え物などを取り除かせた。
そして、正面から靴を脱いで、社殿に乗り込み、
直接、神棚の前でなにかしら祈ったのだ。
そうか、
彼は、島津斉彬(没後
贈正一位照国大明神)を祀る
照国神社の宮司でもあるのだ。
我々庶民とは神霊にたいする向かいかたがまったく違うのだ。
彼は、いったい、誰に、何を祈ったのか?
聴く気にもなれず、私たちは境内を後にした。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ 二つ目は、
「申し入れ書」の件。
二日前から私は、「島津家当主の挨拶をとりやめてもらう」
申し入れ書を作成し、
全国の知り合いを通じて送信してもらっていた。
その内容については、
松島泰勝さんさのブログを参照してください。
申し入れの数について、当局から聴いてはいないが、「多数」あったそうだ。
実行委員会会長の高岡秀規・徳之島町長の開会の挨拶は、
「歴史の認識の仕方はそれぞれですが・・・」で始まった。
これは、申し入れ書を読めばわかるように、
この中にでてくる私たちの「歴史認識」を考慮したコトバである。
島津修久氏の挨拶にも、
「反省、謝罪」の弁はなかった。
これも、申し入れ書の抗議の内容に配慮して、
謝罪のあとにリンクするだろう様々な責任問題を忌避した結果だ。
両者とも私たちの申し入れ書に気を使い、
あらかじめあった原稿の内容を変えたのだろう。
まぁ、目的の一つは功を奏した、と言えよう。
ーーーーーーーーーーーーーー
▼ 三つ目は
、「懇親会」でのこと
▽ ホテル西田で18時からあった。
幸多勝弘さんの計らいにより、私たちは飛び入りで参加させてもらった。
実は、あることを計画していたからだ。
それが実現した、想わぬところで。
トイレをしていたら
なんと島津修久氏がはいってきた。
連れションしながら考えた。
よし、ここでいい。
いや、ここがいい!
ワンは用意していたものを手渡した。
「400年分のお土産を届けに大島からきました。
これを受け取ってください」
黄色いポリ袋には短く切ったサトウキビが8本、
藁でしばられてはいっている。
「それはそれは、」
ワンに名刺を差し出してきた。
ワンは受け取った、が、名刺を持たないので、
「
島ぬ世へ!
笠利町津代の寄合(ゆら)いから
1609年から400年の日に」
というワンの実名入りの長いメッセージを名刺代わりに手渡した。
これは、当日、シンポジウム会場のパンフレットに入れて、
300枚分、配布したもの。
が、入場者は650〜700人もいたようなので、
ぜんぜん足りなかったやつだ
「これも、お土産で、著者からも許可を得てます」
『しまぬゆ』(義 富弘)と『奄美自立論』(喜山荘一)を手渡した。
無責任な謝罪などされてはたまらない。
この三点セットを熟読玩味してから出直して来い!
とは言わなかったが
思いは伝わったようだ。
顔と目に、顕れていたから。
▽ 懇親会は挨拶と余興の連続。
まるで、お殿様をお迎えしての哀れなシマンチュ同士の「植民地歓迎祝賀会」。
薩摩の植民地400年を現在から問うカケラもない。
ここは、どこなんだ?!
鹿児島の山川港か?!
山川でも2009年の催しがあると聞いているから、
といらいらしてたら
ほろ酔いで紅い顔した原口泉氏が焼酎をもってやってきた。
「森本さん、今日の感想はどうでしたか?レベルの高い内容でしたねぇ」
ときたから、こいつは!と思って
「何のため、誰のための会だかわかりませんでしたよ。」
「?」
「400年の記念事業なら、まずは黙祷をささげてから始めるべきでしょう」
「?」
「1,609年の戦没者にだけではありません。その後の、
餓死、飢饉、伝染病、一揆などなどで亡くなっていった徳之島の多くの先人に向けてです。
私は、そのために今日、ここにきたのです」
顔面蒼白になった原口泉氏は
「そういうことなら発言すれば良かったのに・・・」
もうあとは、開いた口がふさがらず、怒りが心頭に発する寸前になった。
悪いけど、席をはずしてもらった。
会次第や質問者の発言などは当局で入念に計画していて、
一言も口を挟めないようにしていたことは、
当日の会の内容(進行・侵攻)からして、自明の理すぎたからだ。
ーーーーーーーーーーーーー
と、まぁ、かくして「徳之島」の一日は終わった。
続きは、そのうち。
「闘牛編」あたりで。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂譜42)
4/15(つち)旧3/20(かのえ とら)
こ(子)読
心の深呼吸中・・・
▼ 4月12日(日)
「笠利町津代の戦跡を顕彰し慰霊するゆらい」
がやっと終わった
13年やってきたが
今年はタマタマ1609年から400年
毎年、粛々と、奄美の400年の歩みを問い続けることで、
「しまぬゆ連合」を提案し模索していくしかないだろう
詳しいメッセージ
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
南海日日新聞(2009年4月14日)の記事を転載します
「ゆらい」の後の「語る会」も充実していたのだが・・・
↓
薩摩侵攻から400年
奄美の将来考える契機に
津代古戦場跡で慰霊の集い
奄美市笠利町
2009年は薩摩軍の奄美、琉球侵攻から400年の節目にあたる。
奄美大島の「三七(みな)の会」(事務局・森本眞一郎さん)は12日、
薩摩軍が上陸、戦闘があったといわれる奄美市笠利町津代で
「慰霊のゆらい(集い)」を開催した。
参列した人々は戦闘で犠牲となった先祖の霊を慰めるとともに、
「400年を奄美の将来を考える契機にしよう」と訴えた
「三七の会」は薩摩軍が上陸した一六〇九年の
旧暦三月七日にちなんで命名。
一九九七年から「ゆらい」を続けている。
ことしは薩摩軍の侵攻400年ということもあり、
七十人を超える人々が参列、徳之島からも駆け付けた。
「ゆらい」にあたって朝山毅・元笠利町長は
「奄美の人々はかつて自分たちの歴史や文化、
出自に自信を持てない時期が合ったが、今の子どもたちは違う。
堂々と『奄美大島の出身』と言える。
それは皆さんが誇りを持って伝えたからだ。
将来に希望を持ち、津代を連携の地にしたい」とあいさつした。
「三七の会」の薗博明さんは(74)は、
「十三年前、山の中で人骨を見たことがきっかけになり、
ささやかな催しが始まった。
先人たちが必死になって子孫を守ろうした思いを受け継ぎ、
これからの奄美を考えるステップとしたい」と訴えた。
島唄の唄者・築地俊造さんが「よいすら節」に乗せて鎮魂歌をささげた後、
参列者がそれぞれソテツ葉を”献花”。
笠利の「いっちゃりょん会」(橋口勝会長)は八月踊り、六調を披露した。
「ゆらい」に続いて「語る会」があり、
出席した人々は「シマンチュとしての誇りを内外に発信していこう」と申し合わせた。
薩摩軍は一六〇九年三月七日、奄美大島に入った。
津代湊には総大将の樺山久高の船団が入ったといわれている。
西藩野史(薩摩の記録)は津代では笠利の大親が三千人を率いて応戦したが、
鉄砲の前には歯が立たずに敗走した、と伝えている。
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂譜41)
4/4(つち)旧3/9(つちのと う)
こ(子)読
▼ きのうは、
「あまみエフエム」(旧称「FMディー」)の
「ゆぶぃニングアワー」にゲスト出演
旧暦の3月8日
400年前、津代で戦闘があったといわれている日
タイムリーな企画におぼこり!
「薩摩の奄美・沖縄侵略400年を問う」関連で
「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」宣伝のため
時間は15分間
あれこれ、話すつもりで
重箱にいっぱい詰め込んでいったが
半分くらいしか取り出せなかった
今日、FMから電話があった
面白かったので、来週、4/11(土)に続編を!
18時15分くらいから
へぇ〜
「
しまぬゆ(の自立と連帯)宣言」と
「奄美自立論」などの紹介だ
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂譜40)
3/26(き)旧2/30(かのえうま)
こ(子)読
▼ きのう、長女が大阪にもどる前
我が家の斜め向かいに引っこしてきた
ユタ神さま(♀)に
トゥジと二人で診せにいったそうだ
家族のことは省いて
ワンへの占いの予言を少しばらすと
1)「
健康はまぁまぁ大丈夫
首の凝(こ)りが前触れになるので、あっためて直すこと
胸のつかえ、胃に注意」
↓
確かに最近、あちこち節々が痛み始めてはいる。
タラソをさぼってるから?
2)「
今年は忙しい年になる
でも、このヒトは、周りに流されず、自分の道を好きに歩んでいくタイプ」
↓
ゴーイング ワン ウエイ!?
確かに2009年(薩摩の奄美・琉球侵略400年)の節目であり
何をするのか、ひそかに注目されてはいるらしいが
ケ・セラ・セラ〜だ
1,609年という数字を内外に認知させること
この12年間の目的であった第一関門は目の前だ
そのあと、具体的にどうするのか
が第二関門だ
3)「特に、
今年の後半あたりから大きな転機がある
出版や政治に関係ありそうだけど」
↓
日本●○協会と水面下で企画中の番組のこと?
それとも執筆中の『しまぬゆ2』出版のこと?
それにしても、やっぱり、スゴイ
しまのユタ
ーーーーーーーーーーーーーー
▽ きのうは、昼過ぎに娘が大阪に戻ったあと
トゥジと次女は、宮崎の高校への入学準備のために
夜船で鹿児島へ旅たった
残された三女とワンは
二人さびしく、うまいカレーライスを食べた
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
最近は本も読めずに原稿もはかどらない
タラソにも4ヶ月のごぶさただが
きのうは
「2009年4月12日のゆらい、と語る会」の案内文を書き
あちこちに流すことに終始した
よろしかったら、「ゆらい」におでかけください
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂39)
3/22(てぃだ=ひ)旧2/26(ひのえとら)
こ(子)読
▼ きょうは朝から
住用川の上流にある
伝説の「野茶坊」の棲家(?)近辺での自然観察会
主催は環境ネットワーク奄美
ワンはその運営委員なんだがきょうは店番
(きのう店を休んだから)
トゥジと次女・三女が代わりに参加
カミナリとどろき、あいにくの雨になっているが
島には雨と水(アマミ?)がよく似合う
だから、それもまたよし
天(アマ)の配剤
PS: 家族からの報告だと
ワンがリンクを張った場所ではなく
もっとスゴイ山奥を登った場所の滝つぼだったそうな
^^^^^^^^^^^^^^^^
▽ きのうは長女の結(22)が大阪から帰郷した。
「奄美のエネルギーをもらいに!」
といっては、しょっちゅう帰ってくる大のアマミ(エ)ッコ
看護師で夜勤明けだというのに
昨夜はさっそく友だちと飲みにでかけ
アサガエリ
いやはやDNAとは恐ろしき
^^^^^^^^^^^^^^^^
この「店頭より」で日常のチャメシゴトにタマ(霊)にふれると
ワンの周りにもいろんな「出船入り船」(人やできごと)が
往き来しているのにきづかされる
はやりのブログではコメントとのやりとりがメンドーっぽい
呑子、危うきに近づかず
ゴーイング ワン ウエイ!
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
▼ きのうは、めずらしく、朝からお祝い
小・中学校での同窓生・保照光の貸し別荘オープンの祝賀会
於、ばしゃ山村
保の奥さんのユキ(旧姓南)さんも同窓生
参加者は40人くらいか
同窓生が5人いた
奄美のお祝いに特有の唄や踊りやスピーチなどはあまりなくて
主催者からの謝辞
乾杯
シマウタ2曲
保家の家族紹介
万歳と祝い歌
と
アットホームで淡々、なごやかなトキがながれ
ばしゃ山村のシマ料理もたっぷりとうまく
赤飯とケーキの引き出物までいただいて
なんと、会費は3000円!
ずいぶん足が出たと思うが
今後、参加者の協力と応援によって
きっと、カメの恩返しが・・・
と思いたい
アマミのココロ!
しまのちからを!
ということで、>「
「ヴィラ・ファニー」」をよろしく!
奄美では初めての「地下式・隠れ家・貸し別荘」だりょっとぉ
宣伝する価値はおおいにあります。
みなさん!
ぜひ、
ここを覗いて、現場にもお立ち寄りください
料金設定は、なんと一泊5万円!(1人から10人まで)
シマンチュには高いけど
「島人割引!」を今度、提案してみます。
テレッ、たんびょっとぉ〜!
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂38)
3/18(みず)旧2/22(みずのえいぬ)
こ(子)読
日本列島から天然(縄文)林が消えていったのは、
「弥生人」たちが「鉄」と「稲」を持ち込んだためだが、
その後の「仏教伝来」による寺院建設もその原因だったとは・・・
知らなかった。
恐るべし
「鎮護国家!」の破壊力
現代の「治山治水!」の公共事業にも引き継がれ
「国栄えて、山河なし!」
クニにすりよるペテン師(政官業)軍団
奄美のシマ島も異口同音
^^^^^^^^^^^^^^^^
三度目の大仏建造は縮小されたとはいえ、
二万六千七百二十三本の桧(ひのき)用材が供出された。
東大寺に限らず、
仏教伝来とともに各地での壮大な寺院建立は、
森林破壊と引き換えに進められた。
こうして樹齢千年を越す桧の美林は、
日本から完全に消滅した。
『七千二百歳の遺言』
◆大自然主義を訴える縄文杉
三島昭男、リサイクル文化社、1600円+税
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂37)
3/17(ひ)旧2/21かのとみ)
こ(子)読
きのう、妹の京子(56歳)が神戸から帰省した
母(93歳)を看に
二泊三日の親孝行
とうとがなし!
^^^^^^^^^^^^
※ 「先祖拝でぃ 神拝め」
(先祖を拝んでから、宗教上の神を拝みなさい)
祖霊信仰の優位性を説いている。
このことわざの通り、シマにはついに仏教は定着できなかった。
※
「先祖ぬ罰やたちまち罰、神ぬ罰やよーいよーい。
(先祖の罰はたちまちに現れるが、神の罰はゆっくりゆっくりやってくる。
神罰のほうも祖霊のほうが神の罰よりも先にやってくると説いている。
※
昔、先祖の言ちゃん事や無駄なしな
(昔の先祖の残した教訓を無駄にするな)
古い時代は経験主義の時代であった。
親の経験で得た知識はそのまま子孫に継承されていった。
※
月ぬ影や踏でぃま、親ぬ影や踏みな
(月の影は踏んでも、親の影は踏むな)
祖霊信仰の定着している地域では、親は最高の権威づけがなされる。
親はお月様よりも上に位置づけられている。
※ シマ歌ぬ始まいや弔いから
(シマ歌は葬式から始まった)
徳之島には葬式に伴う歌が数多く残されている。
死人の枕元で歌う泣き歌「クヤ」や、
墓送りのときに歌われていたという「ヤガマ節」などが、
今学会からも注目されている。
松山光秀『徳之島の民俗文化』138p
(南方新社・2009年2月発行、3000円+税)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂36)
3/14(つち)旧2/18(みずのえいぬ)
こ(子)読
きのう、かわいいみこ(次女)が中学を卒業した
春から宮崎の高校へ進学
「東大医進」の特待生(親孝行!)として寮生活が始まるのだが、
やはりサビシイ・・・親心
^^^^^^^^^^
天とぅじん(大地)は 露下りてぃ 染みゅん
(天と大地は、夜の露によって結ばれる)
古く夫婦の愛は宇宙的視野でとらえられていた。
大地が女で、天が男である。
両者を結び合わせるきずなが露(水)であるという。
この露によって象徴されるのが夫婦の愛である。
母なる大地ともいわれるのは、両者の愛の結晶を生み出すのが女(大地)だからである。
この宇宙的原理は万物の豊穣の象徴ともされる。
シマの豊穣祈願夏祭りは、浜に流入する川のほとりでなされる。
松山光秀『徳之島の民俗文化』138p
(南方新社・2009年2月発行、3000円+税)
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂35)
3/9(つき)旧2/13(みずのとうし)
こ(子)読
自立とは絶妙なバランスで成立すること。
どこかに!見えない糸があるはずなんだ!

絶妙なバランス
もし、地球が太陽にもう少し近ければ
きっと水なんてなくなってしまっていただろう。
もう少し遠ければ、氷の惑星になっていただろう。
さらに
もし、月がもう少し近ければ
衝突してひとつの星になっていただろう。
もう少し遠ければ潮の満ち引きもなく、
地球の水は循環せずに腐っていただろう。
そして、月がなければ、
地軸の傾きは安定せず、とても人類の住める環境を
維持することはできなかっただろう。
もし、地球の地軸が傾いていなければ
南極や北極はもっと冷たく
赤道付近はもっと暑く
とてもこんな多様な生命は育たなかっただろう。
また、美しい四季の変化や
台風や海流による大気や水の大循環も
全く起こらず、静かで動きのない
死んだ星になっていただろう。
もし、太陽系が銀河の外側になければ、
ブラックホールに吸い込まれていただろう。
そして、沢山ある太陽の影響で
どこかの太陽にぶつかっていたかも
もし、地球の外側に木星という巨大な惑星が回っていなかったら
宇宙から飛んでくる様々な星のかけらをブロックできず
この絶妙なバランスをくずしていただろう。
本当にびっくりするくらいの偶然の連続。
ん?
偶然?
本当に?
「偶然」と考えるほうが「非科学的」な気がします。
そこにはそうなるべくしてそうなった
私たち人類がまだ気づいていない
「法則」が存在すると感じずにいられません。
しかし、この人類の叡智をはるかに超越した「法則」を
感じ、見つけられたのも人類だけ。
その「法則」を感じた人類が、
神とか仏という発想でそれを見つめるのはある意味
人類にとって自然で、他の動物より進んだ考えなのでしょう。
21世紀は、もう一歩進んで、
「地球の声」や、その「法則」が向かう未来を、
感じてゆける我々人類に進化したいものです。
バイ「オーシャニア」
「絶妙のバランス」
「太陽と地球」
「土と微生物のバランス」
「地球生命体 ガイア」
「地球のフシギ」

|
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂34)
2/18(みず)旧1/24(きのえうま)
こ(子)読
めにみえるしま宇宙(自分)と
めにみえないしま宇宙(自分)がある
なみとしてのしま宇宙(自分)と
つぶとしてのしま宇宙(自分)がある
しま宇宙(自分)のえねるぎーのもと
それは
全うちゅう(自然)からの
なみとつぶ
しま宇宙(自分)はものとこころとのかかわりのなかで
それぞれのしま(自分)をいきている
自然という全体はしま宇宙の一部で
しま宇宙という全体も自然の一部
わんがしま
自然がわん
わんが宇宙
しまぬゆ
それは
わん(自然と宇宙のかけら)の世
137億60歳の記憶と記録
ー奄美(しま&わん)ー
(鎮魂33)
1/20(ひ)旧12/25(きのと うし)
こ(子)読
あらたまぬ年ぬあけまして拝みんしょうろう
今年だかよーりよーり書きついでいきます
正月から原稿に追われています
生きがい?のタラソ通いも返上し
晩酌の進・駐車場へも寄ってません
『しまぬゆ』の2号を引き受けたからです
自分自身に課した宿題は
「しまぬゆとはなにか?!」
もう何十冊という本を読み漁っているのですが
一行も描けません
苦し紛れに今日は一日こんな詩と格闘してます
↓
「喪のある風景」山之口獏詩集 思潮社
うしろを振り向くと
親である
親のうしろがその親である
その親のそのまたうしろがその親の親であるといふように
親の親の親ばっかりが
むかしの奥へとつづいてゐる
まへを見ると
まへは子である
その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに
子の子の子の子の子ばっかりが
空の彼方へ消入るやうに
未来の果てまでつづいてゐる
こんな景色のなかに
神のバトンが落ちてゐる
血に染まった地球が落ちてゐる
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
奥濱幸子『暮らしと祈り』(19p)
祖先を直接「親」として、
その子孫たちが親の前へ前へと分家していく。
村落(シマ)は、祖先から子孫へ、
次々と神から手渡されたリレーのような血縁共同体の景色に包まれている。

